明日香 豊浦寺跡 推古天皇即位の宮 ― 2020年05月15日
前回、黒岩重吾さんの小説「紅蓮の女王」を読んで推古天皇ご陵を訪問したことを書きました。
あのあたり「近つ飛鳥」って言います。「近つ飛鳥」という地名は、「古事記」に記載があります。
で、奈良県の明日香村あたりが、「遠つ飛鳥」だそうです。
推古天皇のご陵は「近つ飛鳥」ですが、活躍の場は当時の日本の首都「遠つ飛鳥」今の明日香村です。
即位した宮跡に行ってみました。
現在は浄土真宗のお寺向原寺(こうげんじ)の境内になります。

お寺の拝観は無料で、親切にご案内いただきました(^^)/

↑ これが発掘された豊浦宮(とゆらのみや)の遺構です!おおーっ
推古天皇はここで即位されしばらくしてからまた都を小墾田宮(おはりだのみや)に移します。(場所は奈良県明日香村の雷丘周辺が有力推定地)
豊浦寺はその豊浦宮の跡地に建立されたもので、周辺に遺構が残っています。
この時代の物部氏の廃仏派と蘇我氏の崇仏派の争い跡が、すぐ横に伝承地として残されています。
日本書紀によりますと、日本に初めて仏像が伝えられたのは、552年のことで(538年という説あり)、百済の聖明王から伝えられた。
当時の欽明天皇は献上された仏像の礼拝の可否を群臣たちに尋ねたところ、崇仏派の蘇我稲目(蘇我馬子の父)はその仏像を安置させるために、自分の邸宅を寺として立て直したそうで、それがここ豊浦寺です。
その後、国内に疫病が流行したため、排仏派の物部尾輿と中臣鎌子はそんな事態になったのは、外国の神である仏像を祀ったことに対する日本の神々の怒りであるとして、仏像を難波 (なにわ) の堀江に捨て、伽藍を焼き払ってしまったのだそうです。その難波の堀江に当たる場所がこちら ↓

でも、ここ、豊浦寺の隣なんです。いくらなんでもちょっと近すぎでは?
(現在の大阪の難波の池とちゃうか~?との説もあり。。。そこは逆に遠すぎるかも。)
その捨てられた仏像は、600年に信濃の住人である本田善光なる人物が、たまたまこの難波の堀江にさしかかった時、「善光、善光」と、どこからともなく呼ばれるお声を聴き、そして驚くべきことに善光の目の前に、水中より輝く仏像が出現!そんなわけで長野に持ち帰り、善光寺を建立して安置したとの伝説があります。ちなみに善光寺の本尊は絶対秘仏のためご開帳されることはございません。。。
で、この仏像、江戸時代に、向原寺のすぐ横にある、この難波池からこの仏像の頭部だけが発見!
ややや~!伝説の仏像!
その後、京都の仏師が江戸時代に頭部以外の部分を鋳造、接合してあるそうでつまり、頭部は飛鳥時代に日本国内で造られ、首から下及び光背、台座は江戸時代の後補!
そして。。。実は1974年9月に盗難に遭っています。本堂内陣に祀られていた金銅製観音菩薩立像が厨子と共に姿を消したのです!
一度は盗難に遭った観音菩薩様ですが、オークションに出品されているのが見つかり、2010年9月、向原寺に無事お戻りになられました。 ↓

なんという数奇な運命でしょうか。。。。
明日香村に行かれましたら、是非この向原寺(豊浦宮・寺跡)にもお立ち寄り下さいませ。
そして、はるか飛鳥の昔に想いを馳せてみませんか。
それにしてもこの仏様のお顔・・・飛鳥仏のいわゆるアルカイックスマイルの感じられる素晴らしさ!合掌。
(写真は、展示パネルを撮影させていただきました。)
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