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新・隠れ里紀行 明日香村尾曽 ― 2020年07月31日
キトラ古墳壁画公開と国営飛鳥歴史公園キトラ地区に行ってきました ― 2020年07月30日
奈良県明日香村の高松塚古墳(特別史跡、7世紀末~8世紀初め)の極彩色壁画(国宝)の修理が完了したそうです。国宝高松塚古墳壁画修理作業室の公開(第30回)に、申し込んだのですが抽選外れました(-“-)
この壁画のカビなどによる劣化は2004年に判明。壁画の描かれた石室ごと解体して古墳の外に取り出し、2007年から約13年間に及ぶ修理を続けるという異例の展開をたどりました。
実は2010年(第6回)と2011年(第7回)の文化庁主催による公開に行ったことがあります。
まず当局(文化庁)の方から、いかに保存が困難であり、大切であるかというようなレクチャーを受け、(いや・・・その前の発掘管理がまずかったんでしょ~が!作業員が不注意から壁画を傷つけたことも隠してたでしょ・・1300年間、状態を保たれていたのに、国が管理し始めてから30年余で傷つけてしまったやんかーと皆、心の中で思っている。。)その後、実物を見せていただいたのですが、カビによる破損のすさまじさ~!正直これは酷いと思ったのが印象に残っています。どれだけ修復できたのか見たかったのですが。。。
高松塚から10年後、同じ明日香村で発見されたキトラ古墳壁画公開(第16回)の抽選は当たりましたので行ってきました。こちらの壁画修理は平成28年に完了しています。ともに飛鳥時代の壁画であり、古からの中国大陸や朝鮮半島との交流を今に伝える遺産です。
↓ パンフレット
キトラ古墳では高松塚での反省を踏まえ、壁画を石室からはぎとって保存処理。
4年ぐらい前には古墳そばにキトラ古墳壁画体験館四神の館という管理施設ができて、周辺も整備されています。 ↓ なかなかいい感じ
↓ コロナ対策を施しつつ開催されてます(~8月16日まで)
抽選は終わってますが、当日、飛び込みで行ける可能性あります。
↑ 地下の常設展ではキトラ古墳についての展示やシアターがあります。
高松塚古墳が飛鳥美人で有名ならば、キトラ古墳は精緻な天文図が凄いのでは?!
公開は1階の作業室・展示室となりますが、間隔をあけながら入室します。(1回につき10名ぐらいかな)
で、展示はどうなんだ?見えるのか?と聞かれますと、、、なかなかに微妙でございます。。。💦
↑ 今回の目玉はこの朱雀、パンフレットのコピーですがまあこんな感じでで見えますよ(^^)/
↓ ちょっと目視が厳しいのがこちら(左)青龍は口から赤い舌が見えるのが限界
(右)十二支の寅 ・・・ こんなには見えません! 赤い襟のV字型が見える程度です。
他に出土した金具や棺材、装飾品と思われる琥珀玉やガラス玉など展示があります。
壁画は国宝、出土品は重要文化財の指定を受けています。
↓ 歩いてすぐ。キトラ古墳も整備されていて美しい。
7世紀末~8世紀初め頃に造られたと推測されていますが、この頃の古墳は終末期古墳と呼ばれ、古墳時代前期の巨大な前方後円墳から円墳や方墳へと形が変わり、古墳そのものも小さくなる時代です。
さらに少し歩いて、史跡檜隈寺跡地にも行ってきました。第15代応神天皇の時代に渡来した、いわゆる渡来人、阿智使主の居住地跡で、東漢氏の氏寺とされるお寺でしたが、跡地には於美阿志神社が建っています。
檜隈寺は発掘調査によって、金堂・講堂とその基壇・塔・門・回廊・仏堂などが検出されています。伽藍配置は塔の北に講堂があり、南に金堂を置くという独特な配置で、瓦積基壇という工法は、朝鮮半島の寺院で多く用いられているそうです。大量の瓦が出土して、講堂の規模は飛鳥寺や法隆寺西院の講堂に匹敵すると言われています。渡来人大活躍!キトラ古墳や高松塚古墳の壁画絵師、築造にかかわった人物も渡来人なのでしょう。
キトラ古墳が誰の古墳か?というのは不明です。天武天皇の皇子である高市皇子、古墳周辺一帯が「阿部山」という地名であることから右大臣の阿部御主人などの人物説が有力ですが、あるいは被葬者も渡来人のかなり偉い人なのではないかと・・・・
↓ 境内には平安時代の十三重石塔(上部欠損あり)があります。
昔、奈良まほろばソムリエ検定のフィールドワークで、この辺り歩いたこと覚えています(^^♪ あの日も暑かった。
その頃はまだ、飛鳥歴史公園、整備されていなかったのですが、ずいぶん変わりました。
以前行った、高松塚古墳壁画修理作業室の公開の際、同行者に買ってもらったマウスパットがマイ宝物となりました。 ↓ これは玄武 もうひとつ朱雀も持っています(^^♪
次回、高松塚古墳壁画修理作業室の公開、また抽選応募するつもりです!
新・隠れ里紀行 かつらぎ町大字東谷「堀越観音」 ― 2020年07月23日
白洲正子さんの名著「かくれ里」、そのコンテンツの一つに「滝の畑」があります。白洲さんが高名な考古学者、末永雅雄先生の自宅、大阪狭山市を訪ねます。その時、末永先生から狭山から南に入った山奥に、北条氏直が隠れ住んだ村があり、本当の「かくれ里」だから行ってごらんと勧められます。それが「滝の畑」(河内長野市滝畑)で白洲さんはまず、河内長野の天野山金剛寺に行き「日月山水図屏風」を見てから、滝の畑の集落へと向かいます。そこから見た風景があの「日月山水図屏風」にそっくりでここから描いたものであろうと書かれています。
↑ 「日月山水図屏風」 作者不明 (上:右隻・下:左隻)
室町時代, 紙本著色, 六曲一双, 各147.0×313.5cm, 重要文化財, 天野山金剛寺蔵
白洲さんはとにかくこの絵がお好きで、お帰りに再び天野山金剛寺に立ち寄ったとのこと。お好きな理由として、「日月を配したのは、礼拝するための宗教画であったことを示しているが、その原型は山越しの弥陀とか、聖衆来迎の図に求められるであろう。現実に仏を描くことをさけ、日月山水で暗示するにとどめたのは、一つの発展であるとともに、自然崇拝の昔の姿に還ったといえるかも知れない。。。」(かくれ里から抜粋)
そんなかくれ里「滝畑」から、私はさらに車を走らせます。白洲さんも訪れた「光滝寺」も過ぎて「光滝キャンプ場」、たいていの観光客はこのキャンプ場が目的です。が、さらに道は続くのでございます。。。
「光滝寺」のあたりからもし対向車が来たらいったいどーしよう💦な道なのですが、今回1台もすれ違うことなく、昼なお鬱蒼とした道を和歌山県に向かって走ります。
そして到着した集落が東谷。
「堀越観音」は正式名称「堀越癪観音」。お寺は、向井家が先祖代々祀っている世襲寺で、境内には、樹齢200年以上と推定される和歌山県指定の天然記念物のさざんかがあります。
「癪」(しゃく)ですが、時代劇テレビ番組など見ていると、劇中突然、女性が脇腹をおさえつつ「持病の癪が、、あああ・・・」 とか言いつつ痛みをこらえる場面がよく出てきます。 この「癪」とは、胸や腹のあたりに起こる、激痛の総称で胃痛、生理痛、胆石症、盲腸などから来る腹痛すべてが「癪」と呼ばれるそうです。きっと昔は(いや今も)「陀羅尼助」なんかで治すのでしょう(^^)/
お寺の本尊は修験道の開祖・役行者が、母の癪を治そうと心込めて彫った十一面観音像(秘仏)。
↓ どう見ても弘法大師空海様にしか見えないのですが、役行者だそう。。。う~む。
参道や境内、公園などで植えられているキリシマツツジは約50年前、向井住職と奥様が植栽されたそうです。 ↓ 今は紫陽花も美しい。
堀越観音のお隣です。こんなところにぽつんと一軒家レストラン!「鳥唄山馨」(トリウタイヤマカオル)は2018年6月30日にオープンだそうで、築160年の古民家を改装したという店内は非常に雰囲気があります。
メニューはカレー。私はアイスコーヒーだけいただきました。
↓ 和歌山のタウン情報紙、Lism に紹介されていました。
のどかな山里からは紀の川の清流を眼下に国道24号沿いの町並みを見渡して、はるか雨引山、龍門山、高野山、大峰山を遠望できます。
烏帽子形城と河内長野のキリシタン遺跡 ― 2020年07月20日
新・隠れ里紀行 天見~流谷 ― 2020年07月17日
白洲正子さんの名著「かくれ里」のパクリです。
私の住んでいる河内長野市はなかなか緑も多く、文化財も多く残っていていい所です。
今回は、河内長野市南部に位置します「天見」(南海高野線天見駅があります)方面行ってきました。和歌山県(橋本市)との境界に位置します。
山深い森の中であるにもかかわらず「天が見える」ところから「天見」という地名になったという説があります。 ↓ 隠れ里にふさわしい風景です(^^)/
国道371号線を河内長野から南下、「出合ノ辻」といういかにも曰くありげな交差点がありますが、そこは南北朝時代の古戦場で、1333年(正慶2年)の正月に、楠木正成が率いた南朝軍と北朝軍(紀州の御家人)とが、この辻で出くわして「安満見合戦」と呼ばれる壮絶な合戦が行われた場所なのだそうです。
河内長野方面からですとここを右折しますと、「流谷」という集落方向に向かいます。
左折しますと南海天見駅方向です。
流谷「ながれだに」・・これはなかなかに渋い名前ですよね~。くーったまらん!
↓ 八幡神社、通称「流谷八幡神社」(ながれたにはちまんじんじゃ)
この地にはかつて甲斐荘という京都の石清水八幡宮の荘園があったそうです。それで1039年(長暦3年)1月6日に石清水八幡宮より八幡神を勧請し、社殿を造営したことが神社創建の起源とされています。
境内にあるイチョウは樹齢400年とされ、大阪府から天然記念物に指定されています。秋にも来てみたいものです。
↓ 大イチョウ 今は紫陽花もきれいでした。
↑ 縄掛神事も行われています。1039年(長暦3年)石清水八幡宮より勧請された際の御柱渡御古例祭で長さ60mの注連縄を作り、勧請杉と柿の古木との間に掛けます。流谷と天見を分ける結界の意味があり疫病や忌穢れがお互い入り込まないようにします。また注連縄が長く保てば保つほど豊作になると伝わり、注連縄から12本(閏年は13本)の榊束を垂らします。毎年1月6日または前後の休日に執り行われています。
拝殿内に鉄製湯釜が展示されていました。毎年7月に行われる探湯祭の際に行われる湯立て神事にて利用されていたそうで、湯釜の銘文によると賢覚という僧侶が住民に寄付を募り、流谷八幡宮のため作られたことが記されていて、1340年(延元5年)作とされている製作時期が記された湯釜の中では、全国的にも特に古い年代のものだそうです。
今回、一番の目的は日本遺産に登録された「「葛城修験」~里人(さとびと)とともに守り伝える修験道はじまりの地~」における経塚の訪問です。葛城二十八宿は、役小角が法華経八巻二十八品を埋納したとされる経塚です。流谷には第16番経塚があります。
↑ え、こっちですか? みたいな所を歩きます。
↑ え、ここも登るんですか? みたいな所も登ります。さすが役行者さま。。。
↑ 【第十六番経塚】流谷の里 妙法蓮華経 如来寿量品でございます。
お近くにはもう一ヵ所、【第十七番経塚】天見不動 妙法蓮華経 分別功徳品もあるのですが、さらに登山が必要で今回はパスします💦
天見の歴史として、もう一つ興味深いのが隠れキリシタンに関することです。
河内長野は戦国時代、烏帽子形城城主の甲斐庄正治(かいしょうまさはる)がキリスト教の信者で、烏帽子形山の付近には300名ものキリシタン領民が住んでいたというキリシタンの町だったことがあります。1582年にイエズス会の宣教師がローマへ送った報告書に記されているそうです。その後、豊臣秀吉によるバテレン追放令により、キリシタン達は天見の山里に隠れ住んだそうです。当時、そこでも200名ほどの隠れキリシタンがいたそうで、天見の里は隠れキリシタンの里でした。
↓ この細い道を上に上がると薬師堂跡が。
流谷奥の薬師堂跡に破壊された十三仏碑があり、この石碑には「1653年(承応二年)十月十五日」の銘と共に「十三体の仏像」が浮彫にされています。さらに20名の信者名が彫られていますが、その中に「テウロ」や「シタニ」、「道金(ヨハキン)禅門」などキリシタンの洗礼名のような片仮名の名が見られるそうです。(残念ながら私には判別できませんでした)
↓ この石碑は隠れキリシタンのものではないかと推察されています。
この流谷エリア、飛鳥時代から続日本紀などに伝説的に語られる役行者の経塚と、戦国時代の隠れキリシタンの石碑が共存して残る、まさに長い歴史の中での隠れ里と言えるのではないでしょうか。
流谷から戻りまして「出合ノ辻」を反対方向に行きますと南海天見駅(無人)、ここで行き止まりと見えますが、実は道を下ると温泉旅館「南天苑」に続きます。
「南天苑」は明治・大正を代表する建築家・辰野金吾(代表作は東京駅)が手がけた建物です。
↓ 以前に訪問した時はなかったのですが、専用露天ぶろ付きの別館もオープンされていました。
客室も素敵です。
こちらの旅館も私にとって、大切な思い出のある場所の一つでございます。
映画で旅する世界遺産 第5回 沖縄「勝連城」 ― 2020年06月30日
15世紀半ばから約450年間、沖縄には首里城を中心とした王国がありました。「琉球王国のグスク及び関連遺産群」は、2000年にユネスコの世界文化遺産に登録されています。
構成資産は沖縄県に点在する次の9資産です。
今帰仁城跡(なきじんじょうあと)
座喜味城跡(ざきみじょうあと)
勝連城跡(かつれんじょうあと) ← 映画ではこちらが舞台です
中城城跡(なかぐすくじょうあと)
首里城跡(しゅりじょうあと)
園比屋武御嶽石門(そのひゃんうたきいしもん)
玉陵(たまうどぅん)
識名園(しきなえん)
斎場御嶽(せいふぁうたき)
私、以前は洋画ばかりだったのですが最近、邦画よく見ます。特にいわゆる「地方創生もの」として作成された作品はその地元の風景・景観その美しさにちょっとした旅行気分を味わうことができます。そしてその場所に行ってみたいという気分にもなります。(それが映画の狙いの一つでもあるんでしょうが・・(^^)/)
世界遺産登録の目的は保護と保全ですので、なかなか映画のロケ地で使用というのも難しいとは思うのです。特に日本では・・・でもこの「勝連城跡」は屋外の遺構でロケ地としていいですね。
阿麻和利が居城した城と伝えられる勝連城跡は、沖縄の城の中で最も古く、築城は12世紀頃から始まっていたと伝えられています。現在の規模になったのは14世紀ごろのようで、阿麻和利は護佐丸を滅ぼし、さらに琉球統一をめざし国王の居城である首里城を攻めましたが、1458年に大敗して滅びたそうです。
↑ 負けず嫌いの華那は資材運びや、のぼり旗の制作も頑張ります。
↑ 作業後の飲み会で、この勝連城跡からなんと古代ローマの貨幣出土したと聞かされます。
沖縄県のうるま市教育委員会は、世界遺産「勝連城跡」の2013年度の遺構調査で、ローマ帝国のコイン4枚が出土したと発表しました。X線による画像確認などを行った結果、銅貨4枚が3~4世紀のローマ帝国のコインと判明。皇帝らしき人物の肖像や複数のアルファベットが確認されたということです。ローマ帝国のコインが出土するのは、国内で初めてだそう!勝連城跡にかかわる人物が、例えば南アジア島嶼地域や、西洋世界との接点を持つどこかで入手したと考えられています。
これは何と~!埼玉県秩父市や奈良県などで日本の古代通貨、富本銭や和同開珎などが発掘されたのとはまた違う歴史の面白さがありますね~(^^)/
↑ う~ん! 美しい空と海。プロジェクトも完了が近づきます。
しかし、ちょっとした行き違いから美鈴と華那は感情がもつれてしまい、華那は急遽、東京に帰ることに。
↑ 心配した仲間たちが二人のために特別なライトアップを用意します。
お互いに心情を吐露して・・・よかった。よかった。
↑ ボランティアプロジェクトも大成功。
私、沖縄を初めて訪問したのは40年ぐらい前になります。その時訪問したグスクは中城城跡(なかぐすくじょうあと)で、まだ世界遺産ではありませんでしたが、とても記憶に残っています。
↓ こちらは登録資産の今帰仁城跡(なきじんじょうあと)三山時代の北の覇者、北山王の居城です。私が訪問したのは2月ですが、咲いているのは桜です(^^)/
今帰仁城跡からは、琉球王朝発祥の地と言われる、伊是名島と伊平屋島の島影が正面に見え、晴れた日には与論島を見ることもできるそうです。起伏にそってゆるやかな曲線を描く城壁は、1500mの長さ。優美な姿で、ちょっと中国の万里の長城を思わせます。
実は他の城(グスク)もそうなのですが、基本的には遺構です。首里城も跡(すなわち遺構)が世界遺産です。
2019年に、世界遺産が2か所、火災にあう事件がありました。この沖縄の首里城とフランスはパリのノートルダム大聖堂です。首里城は正殿が跡形もなく焼け落ちました。
ノートルダム大聖堂の方は屋根の尖塔が崩落しました。世界遺産の建造物が崩れ落ちる映像に、衝撃を受けました。
しかしながら首里城は石造りの基礎部分や柱穴、溝など地下の遺構部分が「琉球王国のグスクおよび関連遺産群」の一つとして世界遺産に登録されており、1992年以降に復元された建物は、世界遺産の構成資産ではありません。
世界遺産に対する被害は文化庁によりますと、全焼した正殿の地下の遺構表面に2カ所の損傷を確認したが、面積は全体の0.05%とわずかなため「世界遺産の価値に与える影響は軽微」としています。
↑ これが世界遺産の遺構だ!
焼失した正殿や北殿などの復元建物については、再建時の資料が残っているため「復旧可能」とユネスコには報告。世界遺産の価値を分かりやすく伝える施設としてまた再建するそうです。
↑ 復元建造物とはいえ、見事な建物でした。。。またの再建を!
2000円札の絵柄にもなっている守礼門(懐かしい・・沖縄では今でも流通しているのだろうか?)「琉球は礼節を重んずる国」という意味だそう。中国王朝に向けてのメッセージだったとされています。火災の影響はなかったそうですがこちらも世界遺産ではありません。
↓ こちらは世界遺産登録資産 園比屋武御嶽石門
守礼門と歓会門の間にある石でできた門です。軒があり、まるで木造建造物に見えますが、近づいてみれば琉球石灰岩で作られていることに気づきます。国王が外出するときに安全祈願をした礼拝所で、形は門になっていますが。。。人が通る門ではなく、いわば神への「礼拝の門」!
新型コロナウイルスの影響もありました。。首里城ホームページによりますと、6月12日から正殿遺構等も公開されるそうです!
頑張れ世界遺産!
大神神社(夏越しの祓)~山の辺の道~狭井神社 ― 2020年06月28日
↑ ご祭神 大物主は蛇のお姿を持ちます
茅の輪くぐりの起源は古く奈良時代より前にさかのぼり、蘇民将来と素戔嗚尊の伝承です。
(旅の途中に宿を求めた、素戔嗚尊を蘇民将来(そみんしょうらい)が貧しいにも関わらず、もてなしたことで「疫病を逃れるために、茅の輪を腰につけなさい」と教えられ、その通りにするとそれ以来、無病息災で過ごすことができました。ちなみに蘇民将来には巨旦将来 (こたんしょうらい)というリッチな弟がいますが、ケチな彼は宿泊依頼を断っています。もちらん弟君には悲惨な結果が・・・)
でもなんで、腰に身に着けるお守りの大きさが、潜れるぐらいにでかくなったんだろー?
大神神社の拝殿奥は禁足地です。普段は神職ですら入れない神聖な場所で、禁足地と拝殿の間には結界として三ツ鳥居と瑞垣が設けられています。三ツ鳥居の起源は不詳ですが、本殿にかわるものとして神聖視されてきました。大神神社の茅の輪のデザインも変わっていますが、神社のホームページによりますと、その三ツ鳥居のデザインに併せたとありますが。。。
素戔嗚尊の有名な伝説の一つに「八岐大蛇(ヤマタノオロチ)」退治がありますよね。
この茅の輪がヤマタノオロチのデザインではないかと。つまり大蛇です。そして茅の輪のくぐり方は、八岐大蛇と闘っている素戔嗚尊の動きなのではないかと~(^^)/
でも大神神社、6月30日に行われる「夏越の大祓 みわの茅の輪神事」では普通?タイプの茅の輪で行われている様子・・・
山の辺の道を少しだけ歩いて狭井神社へ向かいます。
狭井神社は、病気平癒の神様です。
うむ、いつかは登拝せねばなるまい・・・ 今は暑すぎますです( ;∀;)
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