日本の「ボロブドゥール」奈良市と堺市の「土塔」とは? ― 2020年08月14日
キトラ古墳壁画公開と国営飛鳥歴史公園キトラ地区に行ってきました ― 2020年07月30日
奈良県明日香村の高松塚古墳(特別史跡、7世紀末~8世紀初め)の極彩色壁画(国宝)の修理が完了したそうです。国宝高松塚古墳壁画修理作業室の公開(第30回)に、申し込んだのですが抽選外れました(-“-)
この壁画のカビなどによる劣化は2004年に判明。壁画の描かれた石室ごと解体して古墳の外に取り出し、2007年から約13年間に及ぶ修理を続けるという異例の展開をたどりました。
実は2010年(第6回)と2011年(第7回)の文化庁主催による公開に行ったことがあります。
まず当局(文化庁)の方から、いかに保存が困難であり、大切であるかというようなレクチャーを受け、(いや・・・その前の発掘管理がまずかったんでしょ~が!作業員が不注意から壁画を傷つけたことも隠してたでしょ・・1300年間、状態を保たれていたのに、国が管理し始めてから30年余で傷つけてしまったやんかーと皆、心の中で思っている。。)その後、実物を見せていただいたのですが、カビによる破損のすさまじさ~!正直これは酷いと思ったのが印象に残っています。どれだけ修復できたのか見たかったのですが。。。
高松塚から10年後、同じ明日香村で発見されたキトラ古墳壁画公開(第16回)の抽選は当たりましたので行ってきました。こちらの壁画修理は平成28年に完了しています。ともに飛鳥時代の壁画であり、古からの中国大陸や朝鮮半島との交流を今に伝える遺産です。
↓ パンフレット
キトラ古墳では高松塚での反省を踏まえ、壁画を石室からはぎとって保存処理。
4年ぐらい前には古墳そばにキトラ古墳壁画体験館四神の館という管理施設ができて、周辺も整備されています。 ↓ なかなかいい感じ
↓ コロナ対策を施しつつ開催されてます(~8月16日まで)
抽選は終わってますが、当日、飛び込みで行ける可能性あります。
↑ 地下の常設展ではキトラ古墳についての展示やシアターがあります。
高松塚古墳が飛鳥美人で有名ならば、キトラ古墳は精緻な天文図が凄いのでは?!
公開は1階の作業室・展示室となりますが、間隔をあけながら入室します。(1回につき10名ぐらいかな)
で、展示はどうなんだ?見えるのか?と聞かれますと、、、なかなかに微妙でございます。。。💦
↑ 今回の目玉はこの朱雀、パンフレットのコピーですがまあこんな感じでで見えますよ(^^)/
↓ ちょっと目視が厳しいのがこちら(左)青龍は口から赤い舌が見えるのが限界
(右)十二支の寅 ・・・ こんなには見えません! 赤い襟のV字型が見える程度です。
他に出土した金具や棺材、装飾品と思われる琥珀玉やガラス玉など展示があります。
壁画は国宝、出土品は重要文化財の指定を受けています。
↓ 歩いてすぐ。キトラ古墳も整備されていて美しい。
7世紀末~8世紀初め頃に造られたと推測されていますが、この頃の古墳は終末期古墳と呼ばれ、古墳時代前期の巨大な前方後円墳から円墳や方墳へと形が変わり、古墳そのものも小さくなる時代です。
さらに少し歩いて、史跡檜隈寺跡地にも行ってきました。第15代応神天皇の時代に渡来した、いわゆる渡来人、阿智使主の居住地跡で、東漢氏の氏寺とされるお寺でしたが、跡地には於美阿志神社が建っています。
檜隈寺は発掘調査によって、金堂・講堂とその基壇・塔・門・回廊・仏堂などが検出されています。伽藍配置は塔の北に講堂があり、南に金堂を置くという独特な配置で、瓦積基壇という工法は、朝鮮半島の寺院で多く用いられているそうです。大量の瓦が出土して、講堂の規模は飛鳥寺や法隆寺西院の講堂に匹敵すると言われています。渡来人大活躍!キトラ古墳や高松塚古墳の壁画絵師、築造にかかわった人物も渡来人なのでしょう。
キトラ古墳が誰の古墳か?というのは不明です。天武天皇の皇子である高市皇子、古墳周辺一帯が「阿部山」という地名であることから右大臣の阿部御主人などの人物説が有力ですが、あるいは被葬者も渡来人のかなり偉い人なのではないかと・・・・
↓ 境内には平安時代の十三重石塔(上部欠損あり)があります。
昔、奈良まほろばソムリエ検定のフィールドワークで、この辺り歩いたこと覚えています(^^♪ あの日も暑かった。
その頃はまだ、飛鳥歴史公園、整備されていなかったのですが、ずいぶん変わりました。
以前行った、高松塚古墳壁画修理作業室の公開の際、同行者に買ってもらったマウスパットがマイ宝物となりました。 ↓ これは玄武 もうひとつ朱雀も持っています(^^♪
次回、高松塚古墳壁画修理作業室の公開、また抽選応募するつもりです!
烏帽子形城と河内長野のキリシタン遺跡 ― 2020年07月20日
新・隠れ里紀行 天見~流谷 ― 2020年07月17日
白洲正子さんの名著「かくれ里」のパクリです。
私の住んでいる河内長野市はなかなか緑も多く、文化財も多く残っていていい所です。
今回は、河内長野市南部に位置します「天見」(南海高野線天見駅があります)方面行ってきました。和歌山県(橋本市)との境界に位置します。
山深い森の中であるにもかかわらず「天が見える」ところから「天見」という地名になったという説があります。 ↓ 隠れ里にふさわしい風景です(^^)/
国道371号線を河内長野から南下、「出合ノ辻」といういかにも曰くありげな交差点がありますが、そこは南北朝時代の古戦場で、1333年(正慶2年)の正月に、楠木正成が率いた南朝軍と北朝軍(紀州の御家人)とが、この辻で出くわして「安満見合戦」と呼ばれる壮絶な合戦が行われた場所なのだそうです。
河内長野方面からですとここを右折しますと、「流谷」という集落方向に向かいます。
左折しますと南海天見駅方向です。
流谷「ながれだに」・・これはなかなかに渋い名前ですよね~。くーったまらん!
↓ 八幡神社、通称「流谷八幡神社」(ながれたにはちまんじんじゃ)
この地にはかつて甲斐荘という京都の石清水八幡宮の荘園があったそうです。それで1039年(長暦3年)1月6日に石清水八幡宮より八幡神を勧請し、社殿を造営したことが神社創建の起源とされています。
境内にあるイチョウは樹齢400年とされ、大阪府から天然記念物に指定されています。秋にも来てみたいものです。
↓ 大イチョウ 今は紫陽花もきれいでした。
↑ 縄掛神事も行われています。1039年(長暦3年)石清水八幡宮より勧請された際の御柱渡御古例祭で長さ60mの注連縄を作り、勧請杉と柿の古木との間に掛けます。流谷と天見を分ける結界の意味があり疫病や忌穢れがお互い入り込まないようにします。また注連縄が長く保てば保つほど豊作になると伝わり、注連縄から12本(閏年は13本)の榊束を垂らします。毎年1月6日または前後の休日に執り行われています。
拝殿内に鉄製湯釜が展示されていました。毎年7月に行われる探湯祭の際に行われる湯立て神事にて利用されていたそうで、湯釜の銘文によると賢覚という僧侶が住民に寄付を募り、流谷八幡宮のため作られたことが記されていて、1340年(延元5年)作とされている製作時期が記された湯釜の中では、全国的にも特に古い年代のものだそうです。
今回、一番の目的は日本遺産に登録された「「葛城修験」~里人(さとびと)とともに守り伝える修験道はじまりの地~」における経塚の訪問です。葛城二十八宿は、役小角が法華経八巻二十八品を埋納したとされる経塚です。流谷には第16番経塚があります。
↑ え、こっちですか? みたいな所を歩きます。
↑ え、ここも登るんですか? みたいな所も登ります。さすが役行者さま。。。
↑ 【第十六番経塚】流谷の里 妙法蓮華経 如来寿量品でございます。
お近くにはもう一ヵ所、【第十七番経塚】天見不動 妙法蓮華経 分別功徳品もあるのですが、さらに登山が必要で今回はパスします💦
天見の歴史として、もう一つ興味深いのが隠れキリシタンに関することです。
河内長野は戦国時代、烏帽子形城城主の甲斐庄正治(かいしょうまさはる)がキリスト教の信者で、烏帽子形山の付近には300名ものキリシタン領民が住んでいたというキリシタンの町だったことがあります。1582年にイエズス会の宣教師がローマへ送った報告書に記されているそうです。その後、豊臣秀吉によるバテレン追放令により、キリシタン達は天見の山里に隠れ住んだそうです。当時、そこでも200名ほどの隠れキリシタンがいたそうで、天見の里は隠れキリシタンの里でした。
↓ この細い道を上に上がると薬師堂跡が。
流谷奥の薬師堂跡に破壊された十三仏碑があり、この石碑には「1653年(承応二年)十月十五日」の銘と共に「十三体の仏像」が浮彫にされています。さらに20名の信者名が彫られていますが、その中に「テウロ」や「シタニ」、「道金(ヨハキン)禅門」などキリシタンの洗礼名のような片仮名の名が見られるそうです。(残念ながら私には判別できませんでした)
↓ この石碑は隠れキリシタンのものではないかと推察されています。
この流谷エリア、飛鳥時代から続日本紀などに伝説的に語られる役行者の経塚と、戦国時代の隠れキリシタンの石碑が共存して残る、まさに長い歴史の中での隠れ里と言えるのではないでしょうか。
流谷から戻りまして「出合ノ辻」を反対方向に行きますと南海天見駅(無人)、ここで行き止まりと見えますが、実は道を下ると温泉旅館「南天苑」に続きます。
「南天苑」は明治・大正を代表する建築家・辰野金吾(代表作は東京駅)が手がけた建物です。
↓ 以前に訪問した時はなかったのですが、専用露天ぶろ付きの別館もオープンされていました。
客室も素敵です。
こちらの旅館も私にとって、大切な思い出のある場所の一つでございます。
大神神社(夏越しの祓)~山の辺の道~狭井神社 ― 2020年06月28日
↑ ご祭神 大物主は蛇のお姿を持ちます
茅の輪くぐりの起源は古く奈良時代より前にさかのぼり、蘇民将来と素戔嗚尊の伝承です。
(旅の途中に宿を求めた、素戔嗚尊を蘇民将来(そみんしょうらい)が貧しいにも関わらず、もてなしたことで「疫病を逃れるために、茅の輪を腰につけなさい」と教えられ、その通りにするとそれ以来、無病息災で過ごすことができました。ちなみに蘇民将来には巨旦将来 (こたんしょうらい)というリッチな弟がいますが、ケチな彼は宿泊依頼を断っています。もちらん弟君には悲惨な結果が・・・)
でもなんで、腰に身に着けるお守りの大きさが、潜れるぐらいにでかくなったんだろー?
大神神社の拝殿奥は禁足地です。普段は神職ですら入れない神聖な場所で、禁足地と拝殿の間には結界として三ツ鳥居と瑞垣が設けられています。三ツ鳥居の起源は不詳ですが、本殿にかわるものとして神聖視されてきました。大神神社の茅の輪のデザインも変わっていますが、神社のホームページによりますと、その三ツ鳥居のデザインに併せたとありますが。。。
素戔嗚尊の有名な伝説の一つに「八岐大蛇(ヤマタノオロチ)」退治がありますよね。
この茅の輪がヤマタノオロチのデザインではないかと。つまり大蛇です。そして茅の輪のくぐり方は、八岐大蛇と闘っている素戔嗚尊の動きなのではないかと~(^^)/
でも大神神社、6月30日に行われる「夏越の大祓 みわの茅の輪神事」では普通?タイプの茅の輪で行われている様子・・・
山の辺の道を少しだけ歩いて狭井神社へ向かいます。
狭井神社は、病気平癒の神様です。
うむ、いつかは登拝せねばなるまい・・・ 今は暑すぎますです( ;∀;)
仲哀天皇 真の陵墓はどこにある!? ― 2020年06月23日
新型コロナウイルスが猛威を振るい、他府県への移動自粛が続くある日の昼下がり、出かけられないならお家でビデオでも鑑賞すべく、近所のレンタルビデオ店に出かけた私は、お店の前を通る国道170号線道路(通称:外環)の向かいに古い石碑を発見致しました。以前のブログに書きましたように私、古そうな石碑とか見ると思わず近づいてしまいまして・・・そして石碑の刻まれた文字を見て驚愕したのでのであります。刻まれている文字は「仲哀天皇御陵」!
早速自宅に帰って、ネットで「仲哀天皇陵 河内長野」で検索しますと。。。記事が出てまいりました。
どうやら、一時期この地が仲哀天皇陵として比定され、御陵があり、それを祀る神社も存在していたらしいのです。
↑ 『河内鑑名所記』延宝7年(1679)とその説明です
上原仲哀天皇御廟
社、拝殿、石段、石の鳥居有り、社僧有り、観音堂は普門寺と号す、正観音御長三尺運慶の作
と記し、絵図には、左上に「御廟のはか山」、下に鳥居と「八まん宮」、その右に「本社」、「はいてん」のほか、階段と階下の大鳥居、参拝者、下方には「うへばら村」の絵。
↑ 『西国三十三所名所図会』嘉永6年(1853)全体絵図とその説明です。
上原八幡宮は、上原村の西の丘山にある。街道の西に見える神社。上原村・宗作村・野村の3ケ村の産土神。仲哀天皇宮は、八幡宮の左後ろ上方にあって、石階の下に拝殿がある。
仲哀天皇はあの日本武尊(ヤマトタケル)の御子息であり、あの神功皇后の夫であり、あの応神天皇のパパであるという家系で英雄、ヒーロー、ヒロインにつながります、「古事記」「日本書紀」に記される第14代天皇でございます。ご本人はと言いますと、父上、奥様、ご子息の有名さに比較してやや残念な実績で、九州熊襲討伐のため皇后とともに筑紫に赴いたおり、神懸りした皇后から「熊襲の痩せた国を攻めても意味はない、神に田と船を捧げて海を渡れば金銀財宝のある新羅を戦わずして得るだろう」という託宣を受けたのですが、その託宣を無視して、構わず熊襲を攻め続けます。結果空しく敗れ去り、翌年2月に急死したため、神の怒りに触れたんだーと見なさる始末。その後、神功皇后は三韓征伐という偉業をなすわ、お子(応神天皇)を出産されるわと大活躍されております。
そんな仲哀天皇ではありますが、いったいその御陵はどこにあるのか?
「日本書紀」によると、「神功皇后摂政二年冬11月、天皇を河内国長野陵に葬った」とあり、現在ではその比定地は藤井寺市岡の前方後円墳とされていますが、江戸時代の歴史学者、松下見林はその著書「前王廟陵記」で仲哀陵の所在地を河内長野上原村と比定します!徳川綱吉の時代に、歴代天皇陵墓探索があり、幕府がここを仲哀天皇陵として認定します。それ以降竹垣が巡らされて、隣に西山神社が出来ます。
しかしながら「古事記」には「御陵は河内の恵賀の長江にあり」とあるので、大阪府藤井寺市藤井寺4丁目にある現在の岡ミサンザイ古墳(前方後円墳、全長242m)が仲哀天皇陵となりました。
↑ 宮内庁管理「仲哀天皇陵」岡ミサンザイ古墳
河内長野上原村の方は1735年刊行の「河内誌」によれば、用明天皇の孫である高向王の墓としています。幕末に行われた「文久の修陵」でも、江戸幕府が岡ミサンザイ古墳を仲哀天皇陵と修陵します。河内長野の方は古墳の形が前方後円墳でないということや、周壕がないなどの理由で否定されたそうです。。。
しかーし現在、岡ミサンザイ古墳は子供の応神天皇陵より新しい古墳と推定されています。これは明らかにおかしいではありませんか!すなわち岡ミサンザイ古墳は仲哀天皇陵とは限りません。というか違うでしょうが~!
これは比定のやり直しが必要であろう。そう考えた私はさっそく、河内長野市上原地区発掘大調査団を結成すべく、考古学有志の友人に声をかけたのですが、「コロナが収まってきて、スーパーの仕事が忙しい」とか「最近体調がすぐれず、あいにくその日も腹痛になるであろうことが予想されるので」とか「お前の家の近所に天皇陵?わはは~」など、それぞれの理由により、今回は大調査団の結成は見送られまして、団長=団員(私のこと)1名で上原地区のかつての比定地に調査に向かいました😁
↑ 人家の横から、背後の大変狭い山道を登っていきます。黒・白の猫😾ににらまれました。神々の遣いかも知れません。。
土器や埴輪など遺物が露出していないか、注意して歩きますが、発見できたのは近年のものと思われる・・・ビール缶、ペットボトル等でした('ω')
多分、この上が赤峰市民スポーツ広場になっており、そのあたりから風に吹かれて飛んできたりするのかもしれません。。
↑ 竹藪が繁っていて平地はあまりない。 古代の池と思われる池も発見!
残念ながら、絵図に描かれている仲哀天応を御祭神とした神社の痕跡すら残っておりません。
資料文献によれば、当時の古墳の扱いはかなり乱暴で、古墳であるかそうでないかということではなく、重要なのは陵墓、つまり皇族の葬地であるかどうかが全てで、陵墓に比定されなければ、その伝承もろとも消え去ってしまう場合が多いのです。土地は民間に売却され、神社の建物は全て処分され、墳丘は畑となり、送電鉄塔が建てられていました。
↑ この辺りが怪しい。発掘調査を行いたかったが、民間所有地につき調査員は、遠望するにとどめたのでございます('ω')
そこには天皇陵の比定と同時に多くの神社について、明治の宗教政策がもたらした喪失と断絶の歴史があったことを知ることもできました。
(このあたりまた別のブログとしていつか書きたいです)
参考文献
秋里籬嶋『河内名所図会』 柳原書店 1975年
暁鐘成『西国三十三所名所図会』 臨川書店 1991年
尾谷雅比古『近代古墳保存行政の研究』 思文閣出版 2014年 ← こちらは素晴らしい書籍ですが定価7,200円と手が出ません。河内長野市立図書館にて借りました。
山田五平『神功皇后伝説と大阪・奥河内の物語』 一粒書房 2015年
外地昇『検証 天皇陵』 山川出版社2016年
こちらは私の家のご近所に鎮座されます「住吉神社」です。
小さな神社ですがご由緒を読みますと
「当神社は小山田の東南尾上山の丘陵に鎮座し神功皇后三韓征伐の時深く三神に祈願ありて凱旋の後天下を巡行せられし時 和泉の国逆瀬川の上に騰跎船と云う処に御着き遊ばされそれより河内の国に行幸せられし時弓を射てこの矢の落ちたる処を着御の地と御定めになりその時その国境いに名主與三五郎と云う者御迎へに出で御先導申し上げ当神社の南方高天原に御着き遊ばされ給へり
それより攝政五十二年此の地に斎宮を建立せられ給う 三月壬朔皇后吉日を選びて斎宮に入り自ら神主となりて御祭祀され給う最も多くの歴史をもつ尊い宮なり・・・・(以下略)」とあり神功皇后とのゆかりが書かれているではありませんか。
随分な古社ということになります。
↑ 参道の途中にある高天原神社 由緒書きにある
「騰跎船と云う処に御着き遊ばされそれより河内の国に行幸せられし時弓を射てこの矢の落ちたる処」がココ。 騰跎船という場所がどこなのか、何と読むのかも分からない。。。
なんか空海が密教法具の三鈷杵を、「密教を広めるのにふさわしい地に導きますように」との願いを込めて力一杯投げたら、三鈷杵は流星のごとく飛んで行って、高野山「三鈷の松」にかかっているのを発見しましたってお話と似ている気が。。。。(^^)/
↓ 位置関係です。
すぐ近くに夫である仲哀天応陵があるとしたら、全ては繋がるのではないでしょうか?
宝来山神社 茅の輪くぐりの季節に思う ― 2020年06月20日
朝の神社は実に清々しく、気持ちの良い空間と時間を提供して下さり大好きですね。
和歌山県伊都郡かつらぎ町に鎮座されます、宝来山神社に参拝して参りました。
神社の南側に紀の川の清流が流れ、西側は万葉集に15首も詠まれている妹山、背山を望む風光明媚な高台にあります。
創建は宝亀4年(773年)和気清麻呂が八幡宮を勧請し、八幡山と呼ばれたのが始まりとされています。本殿四社は一間社春日造で重要文化財に指定されているほか、中世に神社が鎮座する紀伊国桛田荘(かせだのしょう)は平安時代の末期頃までは京都の蓮華王院(三十三間堂)の管轄地でした。しかし寿永2年(1183)に後白河法皇が神護寺(京都)へ寄進。それ以来、京都神護寺の荘園領地となり、その頃の景観を描いたとされる二枚の絵図(宝来山神社蔵と京都の神護寺蔵)も重要文化財で、中学、高校の教科書に取り上げられています。(絵図は和歌山県立博物館に寄託、拝殿にレプリカを掲げています。)荘園の範囲は紀ノ川と穴伏川に挟まれた一帯です。
神社に隣接して、神宮寺である神願寺があります。鎌倉時代には荒廃したのですが、そこに神護寺の復興に尽力した文覚上人が、熊野からの帰りにこの地を訪れ、再興したそうです。
↑ 真言宗 弘法大師様の像も建てられています
神社の御祭神は、八幡大神・菅原大神・大山祗大神・猿田彦大神の四柱に素盞鳴大神・大国主大神・蛭子大神・少彦名大神・ 稲荷大神・市杵島姫大神を祀ります。
12月31日の年越の祓と対になる神事です。この2つの神事をあわせて「大祓(おおはらえ)」と呼ぶそうで、大祓の初見は、『古事記』仲哀天皇の段にあります。どちらも災厄を祓い清める儀式です。
↑ 宝来山神社も6月30日に行われます。今年はとにかくコロナウイルス退散です!
古来日本では、夏を迎えるこの時期、疫病が流行ることが多かったため、厄払いと無病息災のため、茅の輪くぐりが執り行われるようになったと考えられています。
茅の輪くぐりのくぐり方は、神拝詞(となえことば)を唱えながら、8の字に3度くぐり抜けるのが一般的です。
神拝詞は声に出さずに唱えますが、代表的なものは以下のようなものです。(地域や各神社で異なる)
「祓い給へ 清め給へ 守り給へ 幸え給へ」
(はらへたまへ きよめたまへ まもりたまへ さきはえたまへ)
茅の輪の茅を引き抜いてはいけないという作法があります。
昔は、この茅を持ち帰ることがお守りになるという迷信がありましたが、現在では茅の輪の茅はたくさんの人の厄を持っているもので、それを持って帰ることは災厄を持って帰ることと考えられています。
宝来山神社では茅の輪の準備はまだでしたが ↑ こちらは丹生都比売神社の様子です
民間信仰・神話では、茅の輪は素戔嗚尊(または牛頭天王)から授かった小さなお守りでした。
牛頭天王は京都・八坂神社の祭神であり、祇園祭の行われる7月には「蘇民将来子孫也」と記した「厄除粽(ちまき)」が、夏越祭では小さな茅の輪のお守り「茅之輪守」が授与されます。
八坂神社でも6月30日に境内に大茅の輪が設置されます。
京都祇園祭は869年、疫病流行を受けた御霊会を起源に始まりましたが、今年は山鉾巡行を取りやめる決定がすでになされています。取りやめは、阪急電鉄の地下工事により中止された1962年以来58年ぶり。感染症との関わりについては、コレラが流行した明治時代に秋に延期したり、5月に実施したりしたこともあったそうですが、本当に残念ではあります。
役行者ゆかりの地が日本遺産に ― 2020年06月19日
もうずいぶん前のことですが、奈良県大峯山の登山口、洞川温泉を旅した時から役行者という人物に興味を持ちまして、最近になってまたゆかりの地など訪ねていました。
本日2020年6月19日付で文化庁から日本遺産の発表があって、その中に和歌山市から奈良県に連なる和泉山脈の『「葛城修験」 里人とともに守り伝える修験道はじまりの地』が含まれていました!おおー!
ストーリーの概要 ↓ (報道発表より)
和歌山~大阪~奈良の境に聳える葛城の峰々。修験道の開祖と言われる役行者がはじめて修行を積んだこの地は、世界遺産の吉野・大峯と並ぶ「修験の二大聖地」と称されています。この地には、役行者が法華経を1品ずつ埋納したという28の経塚があり、今も修験者たちは、その経塚や縁の寺社、滝や巨石を巡ります。そしてその修行にはいつの時代も、この地に暮らす人々との深いつながりがありました。
修験者や地域の人々が大切にしてきた聖地「葛城修験」――修験道の歴史は、ここから始まりました。
「寶雲山(ほううんざん)小峯寺」は、延宝6年(1678)に鋳造された梵鐘の銘文に「小峯山は奈良時代、役行者が滞在し、修練したところで、小峯寺はこのときに始まる」、また「山は五色の霧が立ちこめることから、山号を寶雲山、小峯寺の名は修験道の霊場・大和国大峯山に対比していう」という意味の文が記されています。
大峯山に対して小峯。ほ~、ふむふむ。そうだったんだ。
3月の初めには、昔ながらの修験者の儀式が行われていて、大護摩祈祷が山伏とともに営まれ、その護摩を焚いた灰の上を、素足で火渡りも行うそうです。
二實修験道、葛城根本道場としての役目のあるお寺です。これは一度見学せねば!
↑小峯寺宝篋印塔(市指定文化財・地上高 180Cm)
南北朝時代後期の天授五年(南朝年号 1379年)の紀年銘を有する貴重な宝篋印塔です。全体的に見てバランスが良く美しいではないですか~。
相輪は下から、やや背の高い伏鉢・単弁請花・九輪・単弁請花・宝珠で完存しています。
紀の川流域では他に、かつらぎ町下天野にある、あの西行法師、妻・娘 宝篋印塔(南北朝時代後期、県指定文化財)がなかなか素晴らしいですね。
宝篋印塔墓塔とは、供養塔などに使われる仏塔の一種で、五輪塔とともに、石造の遺品が多いようです。
宝篋とは、宝の箱または宝を入れる籠を意味し、印は、価値の高いことを意味します。
宝篋印陀羅尼を納めた塔を、宝篋印塔と言います。
私、仏像って大好きなのですが、なかなかお写真撮らせていただけませんよね。
その点、屋外・野にある石像・摩崖仏・石仏・狛犬・宝篋印塔・宝塔・多宝塔・五輪塔・石碑などなど石の造作物は、写真撮影できますのでこれまた好きなんですよ~(^^)/
葛城修験「葛城修験二十八宿」は、役行者が法華経八巻二十八品を埋納したとされる経塚です。
経塚の形は、自然石、石祠、五輪塔などまちまちみたいですし、長い歳月の中で不明確になった経塚も多いそうですが。。
高野~熊野~吉野の総本山が連なる山岳宗教の最高峰、紀伊半島中に在る由緒ある修験の道。まだあまり一般に知られてはいないと思いますが、和歌山市の友ヶ島(加太の沖合の島です。近年、天空の城ラピュタのイメージで人気になりました)を一番経塚として出発して、和泉山脈に沿って二十八ヶ所の経塚を全国の修験者の皆様が訪ね巡っています。
「日本遺産登録」、おめでとー!😆⤴️
不動山の巨石 ― 2020年06月17日
高野山と犬たちのお話 ― 2020年06月06日
私、ラブラドールレトリバーの黒犬を飼っていたことがあります。
名前はジョンと名付けました。
犬の名前としては、最も平凡と思わせて・・・私が好きなジャズプレイヤー John William Coltraneから名付けてます(^^)/ 色も黒ですしね~。
↑ 犬のジョン 在りし日の雄姿 ↑ ジャズプレイヤーのジョン 在りし日の雄姿
ええ、犬・猫は好きですね。猫を飼ったら、マイルスって名前つけるつもりです。(マイケルじゃないですよ。)はい、ジャズトランぺッター Miles Dewey Davis III からパクります。
でもどっちかといえば、私には犬の方がなついてくれる気がします。
高野山の麓、九度山町に世界遺産の登録資産にもなっている、古刹「慈尊院」(弥勒菩薩の別名)があります。
こちらのご本尊は弥勒菩薩様ですが、秘仏で何と21年に一度の御開帳です。(21年に一度桧皮屋葺替の際、ご本尊をお移しのために。弘法大師空海の命日が21日ということに因んでとの説もあり)
はい、前回の御開帳の際、拝観させていただきました~!(^^)!
この国宝仏ですが、専門家の眼に初めて触れたのは、昭和35年(1960)のことだそうです。国宝に指定されるほどの見事な傑作仏像が、新たに発見されるなどということは、めったにある事ではないと思います。
明治17年(1884)、国より調査依頼を受けたアーネスト・フェノロサと岡倉天心が、法隆寺夢殿厨子と救世観音菩薩像の公開を法隆寺に求め、長い交渉の末、公開されたという事件に匹敵するのではないでしょうか。(現在、救世観音菩薩は春・秋年2回御開帳)
昭和に入ってからの発見では、昭和12年(1937)の興福寺(旧山田寺)仏頭の東金堂本尊台座下からの発見にも匹敵するかと。(こちらは仏頭のみ。現在は興福寺国宝館にて常時拝観可能です。)
話が仏像にいってしまいましたが、慈尊院は弘仁7年(816)、弘法大師が高野山開創の時、高野山参詣の表玄関として伽藍を創建し、高野山一山の庶務を司る政所を置いて、高野山への宿所ならびに冬期避寒修行の場とされたのが始まりだそうです。また弘法大師の母君
(玉依御前 : たまよりごぜん)が香川県善通寺より、我が子空海の開いている山を一目見たいとの思いから、高齢にも関わらず慈尊院に参られ、ご本尊弥勒菩薩を篤く尊崇せられたそうですが、母君が亡くなられた際に弘法大師は、廟堂の建立と弥勒仏を自作して、母君の霊を安置されたと伝わります。
そんな慈尊院に昭和60年代に、紀州犬と柴犬の雑種が住み着きました。慈尊院から聞こえる鐘の音を好んでいたため、つけられた名前は「ゴン」(^^)/
↑ 【新装版】高野山の案内犬ゴン ハート出版
何とこのゴン、最初の頃は九度山駅と慈尊院の間を参拝者を案内するのですが、そのうちに高野山町石道の約20kmの道のりを朝、慈尊院を発って、夕方に高野山上の大門まで道案内し、(慈尊院からスタートして大門まで8時間ほどかかります!)夜には慈尊院に戻るという毎日を送るようになったのです!
約1200年前、弘法大師空海が高野山を開くに際して、狩場明神とおっしゃる神様と出会ったとき、猟師の姿をして2匹の黒犬を連れていたそうな。
↓ こんな感じ
ゴンは2002年6月5日(5日は弥勒縁、弘法大師母君命日!)息を引き取りました。
「弘法大師の案内犬の再来・生まれ変わり」「お大師さんの犬」などと参詣者から親しまれ、愛されてきたゴンを惜しみ、慈尊院境内の弘法大師像の横に「高野山案内犬ゴンの碑」が建てられています。
↑ なかなかカワイイ
(後日談)2000年6月5日(初代の命日)からゴールデンレトリバーの雑種で2代目ゴンが飼われているそうです。ただ2代目は参拝客をどこにも案内はしないそうでございます(‘ω’)
※ 地元の方からすでに2代目もお亡くなりになったと聞きました。
3代目は今のところ居ないようです。。。
高野山中腹の神社、丹生都比売神社にもご神犬「すずひめ号」「大輝号」が居られます。
行事の際にのみご登場とのことで、私はまだお会いできておりません。。。




















































































































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