仲哀天皇 真の陵墓はどこにある!?2020年06月23日

新型コロナウイルスが猛威を振るい、他府県への移動自粛が続くある日の昼下がり、出かけられないならお家でビデオでも鑑賞すべく、近所のレンタルビデオ店に出かけた私は、お店の前を通る国道170号線道路(通称:外環)の向かいに古い石碑を発見致しました。以前のブログに書きましたように私、古そうな石碑とか見ると思わず近づいてしまいまして・・・そして石碑の刻まれた文字を見て驚愕したのでのであります。刻まれている文字は「仲哀天皇御陵」! 


なんですと!?仲哀天皇陵は、藤井寺市の岡ミサンザイ古墳に比定されいるはずではないか!

早速自宅に帰って、ネットで「仲哀天皇陵 河内長野」で検索しますと。。。記事が出てまいりました。

どうやら、一時期この地が仲哀天皇陵として比定され、御陵があり、それを祀る神社も存在していたらしいのです。

 ↑ 『河内鑑名所記』延宝7年(1679)とその説明です

上原仲哀天皇御廟 

社、拝殿、石段、石の鳥居有り、社僧有り、観音堂は普門寺と号す、正観音御長三尺運慶の作

と記し、絵図には、左上に「御廟のはか山」、下に鳥居と「八まん宮」、その右に「本社」、「はいてん」のほか、階段と階下の大鳥居、参拝者、下方には「うへばら村」の絵。


 ↑ 『西国三十三所名所図会』嘉永6年(1853)全体絵図とその説明です。

上原八幡宮は、上原村の西の丘山にある。街道の西に見える神社。上原村・宗作村・野村の3ケ村の産土神。仲哀天皇宮は、八幡宮の左後ろ上方にあって、石階の下に拝殿がある。


仲哀天皇はあの日本武尊(ヤマトタケル)の御子息であり、あの神功皇后の夫であり、あの応神天皇のパパであるという家系で英雄、ヒーロー、ヒロインにつながります、「古事記」「日本書紀」に記される第14代天皇でございます。ご本人はと言いますと、父上、奥様、ご子息の有名さに比較してやや残念な実績で、九州熊襲討伐のため皇后とともに筑紫に赴いたおり、神懸りした皇后から「熊襲の痩せた国を攻めても意味はない、神に田と船を捧げて海を渡れば金銀財宝のある新羅を戦わずして得るだろう」という託宣を受けたのですが、その託宣を無視して、構わず熊襲を攻め続けます。結果空しく敗れ去り、翌年2月に急死したため、神の怒りに触れたんだーと見なさる始末。その後、神功皇后は三韓征伐という偉業をなすわ、お子(応神天皇)を出産されるわと大活躍されております。

そんな仲哀天皇ではありますが、いったいその御陵はどこにあるのか?

 

「日本書紀」によると、「神功皇后摂政二年冬11月、天皇を河内国長野陵に葬った」とあり、現在ではその比定地は藤井寺市岡の前方後円墳とされていますが、江戸時代の歴史学者、松下見林はその著書「前王廟陵記」で仲哀陵の所在地を河内長野上原村と比定します!徳川綱吉の時代に、歴代天皇陵墓探索があり、幕府がここを仲哀天皇陵として認定します。それ以降竹垣が巡らされて、隣に西山神社が出来ます。

しかしながら「古事記」には「御陵は河内の恵賀の長江にあり」とあるので、大阪府藤井寺市藤井寺4丁目にある現在の岡ミサンザイ古墳(前方後円墳、全長242m)が仲哀天皇陵となりました。

 ↑ 宮内庁管理「仲哀天皇陵」岡ミサンザイ古墳


河内長野上原村の方は1735年刊行の「河内誌」によれば、用明天皇の孫である高向王の墓としています。幕末に行われた「文久の修陵」でも、江戸幕府が岡ミサンザイ古墳を仲哀天皇陵と修陵します。河内長野の方は古墳の形が前方後円墳でないということや、周壕がないなどの理由で否定されたそうです。。。

しかーし現在、岡ミサンザイ古墳は子供の応神天皇陵より新しい古墳と推定されています。これは明らかにおかしいではありませんか!すなわち岡ミサンザイ古墳は仲哀天皇陵とは限りません。というか違うでしょうが~!

 

これは比定のやり直しが必要であろう。そう考えた私はさっそく、河内長野市上原地区発掘大調査団を結成すべく、考古学有志の友人に声をかけたのですが、「コロナが収まってきて、スーパーの仕事が忙しい」とか「最近体調がすぐれず、あいにくその日も腹痛になるであろうことが予想されるので」とか「お前の家の近所に天皇陵?わはは~」など、それぞれの理由により、今回は大調査団の結成は見送られまして、団長=団員(私のこと)1名で上原地区のかつての比定地に調査に向かいました😁

 ↑ 人家の横から、背後の大変狭い山道を登っていきます。黒・白の猫😾ににらまれました。神々の遣いかも知れません。。

土器や埴輪など遺物が露出していないか、注意して歩きますが、発見できたのは近年のものと思われる・・・ビール缶、ペットボトル等でした('ω')

多分、この上が赤峰市民スポーツ広場になっており、そのあたりから風に吹かれて飛んできたりするのかもしれません。。

 ↑ 竹藪が繁っていて平地はあまりない。 古代の池と思われる池も発見!

残念ながら、絵図に描かれている仲哀天応を御祭神とした神社の痕跡すら残っておりません。

資料文献によれば、当時の古墳の扱いはかなり乱暴で、古墳であるかそうでないかということではなく、重要なのは陵墓、つまり皇族の葬地であるかどうかが全てで、陵墓に比定されなければ、その伝承もろとも消え去ってしまう場合が多いのです。土地は民間に売却され、神社の建物は全て処分され、墳丘は畑となり、送電鉄塔が建てられていました。 

 ↑ この辺りが怪しい。発掘調査を行いたかったが、民間所有地につき調査員は、遠望するにとどめたのでございます('ω')


そこには天皇陵の比定と同時に多くの神社について、明治の宗教政策がもたらした喪失と断絶の歴史があったことを知ることもできました。

(このあたりまた別のブログとしていつか書きたいです)

参考文献

秋里籬嶋『河内名所図会』 柳原書店 1975

暁鐘成『西国三十三所名所図会』 臨川書店 1991

尾谷雅比古『近代古墳保存行政の研究』 思文閣出版 2014年 ← こちらは素晴らしい書籍ですが定価7,200円と手が出ません。河内長野市立図書館にて借りました。

山田五平『神功皇后伝説と大阪・奥河内の物語』 一粒書房 2015

外地昇『検証 天皇陵』 山川出版社2016

 

こちらは私の家のご近所に鎮座されます「住吉神社」です。

小さな神社ですがご由緒を読みますと

「当神社は小山田の東南尾上山の丘陵に鎮座し神功皇后三韓征伐の時深く三神に祈願ありて凱旋の後天下を巡行せられし時 和泉の国逆瀬川の上に騰跎船と云う処に御着き遊ばされそれより河内の国に行幸せられし時弓を射てこの矢の落ちたる処を着御の地と御定めになりその時その国境いに名主與三五郎と云う者御迎へに出で御先導申し上げ当神社の南方高天原に御着き遊ばされ給へり

それより攝政五十二年此の地に斎宮を建立せられ給う 三月壬朔皇后吉日を選びて斎宮に入り自ら神主となりて御祭祀され給う最も多くの歴史をもつ尊い宮なり・・・・(以下略)」とあり神功皇后とのゆかりが書かれているではありませんか。

随分な古社ということになります。

 ↑ 参道の途中にある高天原神社 由緒書きにある

騰跎船と云う処に御着き遊ばされそれより河内の国に行幸せられし時弓を射てこの矢の落ちたる処」がココ。 騰跎船という場所がどこなのか、何と読むのかも分からない。。。


なんか空海が密教法具の三鈷杵を、「密教を広めるのにふさわしい地に導きますように」との願いを込めて力一杯投げたら、三鈷杵は流星のごとく飛んで行って、高野山「三鈷の松」にかかっているのを発見しましたってお話と似ている気が。。。。(^^)/


 ↓ 位置関係です。

すぐ近くに夫である仲哀天応陵があるとしたら、全ては繋がるのではないでしょうか?


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