役行者 ゆかりの地2020年06月05日

古刹といわれる歴史ある寺院を訪問しますと、「役行者」開基という所が多くあります。

私の住む大阪府河内長野市の「観心寺」もそうですし、大阪府南河内郡河南町「弘川寺」、大阪府泉佐野市の「七宝瀧寺」、大阪府和泉市「松尾寺」、奈良県吉野町の「金峯山寺」、天川村の「大峯山寺」「龍泉寺」、御所市「転法輪寺」(金剛山上)などなどそれはもうきりがありません。

役行者とは?

7~8世紀に奈良を中心に活動しておられました、修験道の開祖とされている人物です。

 ↑ 泉佐野市 七宝瀧寺に祀られる尊像です。


「役行者」は「役小角(えんのおづの)」がその本名であると言われています。

「神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)」とも言われますが、これは光格天皇が、寛政十一年(1799)、役行者に贈った諡号(しごう)です。

多くの伝説が残されており、私は役行者を日本のファーストXMENと呼んでいます(^^)/

幼少のころ頭に角があったとも。

恐らく念能力で物質を動かすことができる系のミュータントですね。

物質証拠としては、鳥取県にある三徳山三佛寺投入堂です。役小角が法力で建物ごと平地から投げ入れたという伝承が残されています。https://www.tottori-guide.jp/tourism/tour/view/168

 

役行者は、鬼神を使役できるほどの法力を持っており、前鬼と後鬼を従えた姿が有名です。

前鬼・後鬼は、夫婦の鬼で前鬼が夫、後鬼が妻

↓ こちらは天川村洞川 龍泉寺の前鬼・後鬼の雄姿

写真右 夫の前鬼は赤鬼で鉄斧を手にし、役行者の前を進み道を切り開きます。

現在の奈良県吉野郡下北山村出身とされています。

写真左 妻の後鬼は、青鬼で、霊力のある水が入った水瓶を手にし、種を入れた笈を背負っていることが多いそうです。現在の奈良県吉野郡天川村出身とされています。

 ↑ 龍泉寺の境内、「龍の口」と呼ばれる泉から湧き出る清水は、修験者たちから「清めの水」とされて、大峰山の第一の水行場とされるなど、修験道の道場として有名です。

洞川から大峰山(山上ヶ岳)を登る修験者は、宗派を問わず、龍泉寺で水行の後、八大龍王尊に道中の安全を祈願するのが慣例となっています。


↑ 大峰本宮 天河大辨財天社

別名天河神社ともいい、日本三大弁財天の筆頭・大峯本宮とされる神社で、芸能の神様としても有名です。能関係資料多数が保存され、我が国能楽発達史上の貴重な資料とされています。

弘法大師 空海は、同神社への参籠や大峯の山中で修行によって神仏習合の密教を「あ字観」として完成したそうです。おおーっ!ここで。。。そうだったんだ。


この神社の本殿参道上に、ひものような細いもの(全長10cmぐらい)が、うねうねと動いています。蛇!? いやここは神社です。神の化身と遭遇でございます!

それにしても、神様、いくらなんでも少々、サイズが小さすぎるのでは。。。( ;∀;)

 

  ↑ こちらは、奈良県御所市にある役行者、生誕地 吉祥草寺


 ↑ 開山堂には、等身を超える木造の役行者倚像・前後鬼坐像を祀り、本堂が改築された江戸初期の作と考えられています。この役行者像は顎髭がなく、若き日の役行者の姿を写した珍しい像です。(撮影のご許可をいただきました)

木造役行者母公坐像も、他に遺品の少ない貴重な作例です。


(母想いなエピソード)

役行者は大峯山(山上ヶ岳)に向かい修行をしていました。

この修行を案じた役行者の母、渡都岐(とつき)白専女は、役行者の弟子・後鬼の案内で葛城山の麓、茅原から険しい峠や山河を越えて、役行者が山籠りして修行している大峯山に一番近い、洞川の蛇ケ谷まで会いに来ましたが、この谷を渡ろうとすると、一匹の大蛇が行く手を阻み、どうしても渡ることが出来ません。後鬼と替わるがわる何度試みても駄目でした。このことを知った孝行心の篤い役行者は、このままでは母は私を心配して命の危険な山中を何処までも心配して追っかけて来るだろう。蛇ケ谷に庵を建て母に住んでもらい、身の回りのことを後鬼に頼み、私自身が時々母を訪ねることにすれば、母も安心して留まってくれるだろうと、洞川の人たちに頼んで母の庵を建ててもらい、母公堂と庵の名を付けました。  ↓ 天川村洞川の母公堂

また役行者は母を思う心から、母が後を追わないようにと「女人入山禁止の結界門」を建てました。これが「女人禁制」の始まりであり、1300有余年後現在も守り続けられています。↓

※ 現在は山上ヶ岳の登山口にある女人結界門まで女性も進むことができます


(びっくり仰天なエピソード)

役行者様、ある時、葛木山と金峯山の間に石橋を架けようと思い立ち、諸国の神々を動員してこれを実現しようとします。。ところが、葛木山の神、「一言主」は、夜間しか働かなかったのです。役行者は「一言主」を、折檻して責め立てたそうな!(神様相手に無茶苦茶でんがな~)

すると、それに耐えかねた「一言主」は、天皇に役行者が謀叛を企んでまっせと訴えため、(一言主もあなた神様なんだから~って突っ込みたくなるところではあります・・・)役行者は彼の母親を人質に取られ、(母親想いの弱点を突かれたか!?)朝廷によって捕縛され、伊豆大島へと流刑になったとか。。。

 ↑ 葛木 一言主神社 乳だれの大イチョウが有名です。


役行者の生涯に関して、史料としては「続日本紀」に記述がありますが、伝承によるところが大きく、「日本霊異記」などに、当時流布していた話を元にして書かれているようです。荒唐無稽な話と思われるかもかもしれませんが。。。


ところで、行者(ぎょうじゃ)とは、○○の修行を行う者の意味で、特に断食や針山の上に坐禅をするなどの苦行の行者が有名です。

お釈迦様も悟りを開く前に、苦行をしていた事で知られています。

日本では、特に山岳修行を行う者を指すようになり、修験道(しゅげんどう)と呼ばれる宗教となりました。


ちょっと話がずれますが、こんな映画観ました。
「劒岳 点の記」新田次郎さんの山岳小説を映画化したものです。
 ↑ 印象的な猛吹雪の中で、修験道の行者が祈るシーンから物語は始まります。

明治の頃、軍の陸地測量部の測量官に、未踏峰とされてきた剱岳への初登頂と測量の命令が下ります。

それは日本地図最後の空白地帯を埋めるという重要かつ困難を極める任務だったのです。

ベテラン山案内人とともに測量に挑んだ男たちは、ガレ場だらけの切り立った尾根と悪天候・雪崩などの厳しい自然環境、ライバル日本山岳会との登頂争い、未発達な測量技術と登山装備など様々な困難と戦いながら測量を行います。

そして、ついに剱岳登頂に成功いたします!
その時、山岳ガイドが足元に光るものに気が付きます。
「隊長、これはいったい何でしょうか。。。?」    「どれどれ・・・」

それは、修験道の行者の錫杖の一部分だったのです!な、なんと~!
陸地測量部は、初登頂ではなくもう、何百年以上も前に行者が登頂していたのであります。

初登頂ではなかったのですが、価値ある測量のおかげで、日本地図は完成したといういいお話です。新田さんの山岳小説の中でも傑作ですね~

それにしても修験道・・・行者様・・・凄すぎる~(^^)/
役行者様を主人公とした映画を、制作していただきたいものです!

木喰(食) 上人2020年06月02日

一般的に「木食」とくると、「木喰仏」(もくじきぶつ)の作者である仏師「木喰上人」(1718年~ 1810年)のことを思い浮かべると思います。・・・といってもそのジャンル(仏像彫刻)が好きな人だけでしょうけれども。。。

私はNHKのEテレの番組、日曜美術館「微笑(ほほえ)む仏~柳宗悦が見いだした木喰仏~」で知りました。

この方は生涯に三度改名し、木喰五行上人、木喰明満上人などとも称したそうですが、本名が何なのかよくわかりませんので、「木喰上人」で押し通されているようです。

木喰より1世紀ほど前の時代に活動した、仏師円空(1632 - 1695年)もまた木喰僧ですが、円空の場合あまり木喰円空とは言われません。

このお二人は、仏師であるという共通点があり、恐らく「木喰上人」は円空の仏像彫刻の影響を受けています。 

  上画像 円空  下画像 木喰

 円空の荒削りで野性的な作風に比べると、木喰の仏像は微笑を浮かべた温和なものが多いです。 


「木食(もくじき)とは、固有名詞ではなく、草木しか食べない修行僧のことです。穀物さえも断ち、草や木の実だけを食して行を受ける人たちです。」と、私の尊敬する人のブログから知ることができました。

おーそういうことか!なるほど~ 究極のベジタリアン。。。

ブログによりますと、修行である木食の開祖は弾誓(たんぜい、1552年~1613年)。尾張国の出身9歳で出家後、諸国を行脚して修行の後、京都の大原に古知谷阿弥陀寺を開山、そこで62才の時、自ら石棺に入り即身仏となったと伝えられています。古知谷カエデと呼ばれる樹齢800年以上の古木もあるそうで、いつか是非訪問したいお寺です。(秋とか素晴らしいのでしょうね。)

京都府南丹市八木町には、「木喰上人」最晩年の仏像(羅漢像)が残されているお寺、清源寺があり、こちらも行ってみたいです。

 

高野山の麓に橋本市(和歌山県)があります。

木食応其(もくじきおうご)は、橋本市では応其上人と呼ばれ、尊敬されています。出身は近江のお侍、38歳で高野山において出家し、高野山に興山寺(青巌寺と合併して現在の金剛峯寺になっています)を創建したほか、行基の再来ともいわれるほど、各地で寺社の造営に尽力しています。

豊臣秀吉が発願した大仏(盧舎那仏)を安置するための寺、京都の方広寺も応其上人によって創建されました。京都の地名で上人町(京都市東山区問屋町通)は、方広寺造営の際に招致された応其が、五条大橋東詰南側付近に草庵を営んだのが地名の由来になったという説もあります。(京都観光文化検定出題予想😁)

応其上人、実は豊臣秀吉にめちゃくちゃ気に入られています。秀吉が紀州を攻めて根来寺・粉河寺・雑賀を攻略した後、高野山に対して降伏を求めた時、和睦交渉で力を尽くしたからです。

高野山に向かうため、紀の川に長さ約236mの橋を架けました。「橋本」の地名はこれによるものと伝えられています。おーっそうだったんだ(^^)/

橋本橋という右から読んでも左から読んでも、はしもとはしという名前の橋がありますが、その橋お近くに応其上人が開基のお寺、応其寺があります。 ↓

 

また、現在の地図を見ても橋本市~高野山には多くの池が見えますが、その大半は応其上人が工事をされたと伝わっており、この土木事業ぶりがやはり行基の再来~!

 

応其上人は関ヶ原の戦い以降、晩年は連歌の規則や作法を記した『無言抄』を出版した後、1608101日に入定。行年73歳。

辞世の句は「あだし世を めぐり果てよと 行く月の きょうの入日の 空にまかせん」

高野山奥の院に程近い場所に廟所があります。

古代との対話 ~ゲンセツに行きたい2020年05月22日

古代史が好きで、よく奈良、特に橿原市~明日香村にかけて出かけました。
ただ、古代の観光資源はほとんどが遺構です。現状はたいてい田畑が広がっててそこに想いを馳せる。。。そんな時、発掘したての現場を見学できるイベントがあることを知りました。
考古学的な発見が大きかった時などよく実施されています。現地説明会、、ゲンセツです!
今は新型コロナウイルスの影響で実施されていないと思いますが。。。以前は良く参加させていただきました。牽牛子塚古墳の時は参加者の行列並びました~。夏の暑さに倒れかけたこと覚えています( ;∀;) 
 ↑ スクラップブックに張り付けた当時の新聞ニュースです。
何といっても明日香における土木工事の女帝、斉明天皇の真墓か!?ですよ~!
これは行かねばなるまい・・・と思った次第です。
なのにその後、かなり歳月が過ぎましたが、宮内庁の治定(車木ケンノウ古墳)はなかなか改められないですねー(というより改めない方針なんでしょうねー)

ゲンセツに行きますと、発掘ほやほやの土器やら、ハニワやらがその場で見学できて感動ひとしおなんですよ~!
特に思い出深いのが2011年2月26日の茅原大墓古墳です!
 ↑ ごれがゲンセツの様子だ!
古墳時代中期初頭頃(4世紀末頃)の帆立貝式古墳(後円部に対して前方部の規模が小さい)のクビレ部から盾持人埴輪、埴輪棺が出土しています。
この盾持人埴輪がそれはもうステキ💛なんです。
盾持人埴輪は、これまでに50箇所以上の古墳・遺跡において出土していて、他の形象埴輪とは異なり、古墳の外縁部に置かれる例が多く、外側の邪悪なものから古墳を守る「辟邪(へきじゃ)」の意味を持つものと考えられているそうです。
いかがですか?古墳を守る守備隊!カッチョいいですよね~!

お顔の表現がたまりませんです。守備隊の割にはあまり怖くない??

また、いつかゲンセツに行ける日を心待ちに。。

葛城古道を歩く 高鴨神社~高天彦神社~葛木御歳神社2020年05月20日

奈良盆地の東に連なる美しい青垣の山裾を縫うように、三輪山の麓から石上布留を通り、奈良へと通じる道。「日本書紀」にもその名が残り、日本最古の道ともいわれる「山の辺の道」が好きで何度か歩きに行きました。個人的に行ったり、お客さんを連れてのガイドや添乗でも行きました。

もう一ヵ所好きな古道に、西の葛城連山の麓を走る「葛城古道」があります。
こちらは個人的に歩いただけで、お客さんをお連れしたことはないです。
でも、専門学校の教員時代、学生たちを案内して、観光に関する論文を執筆してもらいました。
一般財団法人日本ホテルセンター様の「学生観光論文コンテスト」に応募したもらうためです。2015年のことでした。論文タイトルは、資産価値の認識を目的とした観光コースの作成など~語学・観光系専門学校との実務レベルでの「産学連携」の提案~】
結果、最優秀賞は逃したのですが、優秀賞(公益財団法人日本ナショナルトラスト 会長賞)を受賞いたしました~!ああ~懐かしいなあ。。。
このコンテストも2019年度で終してしてるようですが、19回の歴史で、受賞は大学生ばかり。専門学校生が受賞したのはほとんどないと思います。
いい内容ですよ。 是非読んであげてください! こちらからアクセスできます。

葛城古道の道沿いには、古代豪族の 葛城(かつらぎ)氏とか鴨(かも)氏ゆかりの古社が点在しており、神さびた雰囲気が漂っています。。。

こちらは、高鴨神社です。↓
全国の鴨(加茂) 社の総社です。京都にある世界遺産の下鴨(しもがも)・上賀茂(かみがも)両社も、源流はこの神社にあります。
また、4月中旬から5月初旬にかけて500種2,200鉢以上の日本サクラソウが咲くことでも有名です。
ご神木と本殿へ上る階段、鳥居の向こうに拝殿が見えます。↑ 本殿はその奥で天文12年(西暦1543年 室町時代)再建、三間社流造の建造物で国の重要文化財に指定されています。(撮影禁止)

高鴨神社境内の宮池には浮舞台があり、5月に行われる「献花祭」で奉納される雅楽と舞は、「奈良県景観資産」に登録されています。↓
こちらは、摂社東宮で、県指定重要文化財に指定されていますす。 ↑ 
さらに摂社西宮や多くの摂社が境内にはあります。
鴨、「カモ」は「カミ」と同源であり「カモす」という言葉から派生し、「気」が放出している様子を表しているそうです。こちらの神社の神域は鉱脈の上にあることも重なり、多くの「気」が出ているパワースポットとしても有名です。

御所市高天の高天彦神社です。参道はかなり急な山道です。。。↓

↑ 高天彦神社拝殿です。金剛山の麓に建つ神社であり、5世紀ごろに栄えた葛城氏の祖神「高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)」を祀っています。御神体は、背後にそびえる円錐形の白雲峯(694m)です。
そして、この一帯は、古くは日本神話に登場する天孫降臨の「高天原(神々がおわした土地)」といわれています。

↓ 葛木御歳神社(かつらぎみとしじんじゃ)です。全国にある御歳神社・大歳神社の総本社であり、先に訪れた高鴨神社(上鴨社)に対して「中鴨社」と称されています。 
※ 鴨都波神社(下鴨社)もありますが今回はご参拝できていません。また次回是非に!
( 神社ご由緒書きより抜粋 )
「御神名の「トシ」は穀物特に稲、またはその実りを意味する古語で、御歳神は稲の神、五穀豊穣をもたらす神、また、穀物の生長を司る神として古くから崇敬されています。また「トシ」は年に一度の収穫を基準とした時の単位であることから、何か事を始める時にお参りするとよいとされています。
私たちが正月にお祭りし、親しんでいる年神様は、この御歳神、大年神、若年神といわれています。鏡餅は御歳神へのお供え物(依り代)であり、このおさがりのお餅には御歳神の魂がこめられており、これを「おとしだま」と呼んでいたものが今のお年玉の起源であります。。。」
神社名は「みとせじんじゃ」とも呼ばれているそうで、その歴史は古く弥生時代よりの頃より五穀豊穣の神として祭られてきた場所です。
親切な宮司様にご案内いただき、ご神域近くまで入らせていただきました。
いにしえからの空気に満ちたご神域。。。。
宮司様に教えていただき、歩いてきた足元を見ると不思議な植物が! ↓(白い植物)
銀竜草(ギンリョウソウ)というそうです。
ツツジ科ギンリョウソウ属の多年草で、別名がユウレイタケ。。。(-_-;)
森林の林床に生え、花が咲くとき(4月~8月)以外は、その姿は地上では見られないそうです。
いや~、初めて見ましたが、色素がなくて真っ白なんです。
「神さまの使い」かもしれないなー。。。なんて思ってしまいましたです。

手塚漫画と明日香村 謎の石造物2020年05月18日

日本で、いや世界で最も偉大な漫画家であると信じる手塚治虫先生。膨大な作品の中で私が思う代表作は何といっても「火の鳥」です。特に過去と未来を交錯させながら展開する、実質的最終話「太陽篇」が好きです。

過去の部分では、西暦663年、白村江の戦いで倭・百済軍が唐・新羅連合軍に惨敗しするところからお話は始まります。百済王一族の兵士・ハリマは、唐軍に捕らえられ、生きながらに顔の皮をはがれ、狼の皮を被せられてしまいます。狼の顔を持ったハリマは、不思議な老婆に助けられ、老婆、そして瀕死のところを助けた大将軍、阿倍比羅夫と共に倭国へやってきます。物語の舞台は当然、飛鳥の都になります。

日本古来の産土神(漫画では狗族という狐っぽい一族)と仏教の四天王が、実際に戦ったり、当時の仏教が日本に浸透し、天智天やら大海人皇子も登場して、仏教が災いになるだの、いや仏教に帰依するだのといった混乱が描かれています。



↓ 斑鳩、法隆寺の火災事件も描かれています。


手塚漫画は他の作品もすべて傑作ぞろいですが、「三つ目が通る」でも飛鳥を舞台にしたお話があります。飛鳥には誰が、何のために作ったのかよくわからん~??石造物が約20体ほどあるそうです。
その中の酒船石 ↓を扱っています。このお話は多分、松本清張さんのミステリー小説「火の道」にヒントを得ています。そうですねー。私も数ある石造物のうち、これが一番ミステリーを感じて好きです。


酒船石の場所は 亀形石造物 小判形石造物と祭祀場 ↓の横を少し登っていく丘陵の上、竹林の中ですが、発掘調査でこの丘陵は自然のままではなく、版築と砂岩の切石で改造した人工的な丘陵ということがわかっています。

他の石造物もミステリアスで、「誰が、何のために?」と想像力を働かしながら見て回るのは楽しいです。


飛鳥資料館に展示されている石人像  ↑

岩に座った男性に女性が後ろから手をそえているのでしょうか。男性の足元から口まで内部に細い管が通り、途中で女性の口にも分岐しているのだそうで、噴水施設であったと推測されています。

ブラタモリでなんか実験やってましたね。。石人像の風貌から男女のモデルをペルシャ・インドに求める説もあります。うーむ、この時代に遠路はるばる。。。聖徳太子ペルシャ人説、ゾロアスター教説なんかも興味あります('ω') 


猿石 ↑ は4体が吉備姫王墓内にあります。
実に奇妙な人面石像で、猿ではなく渡来人を象ったものといわれています。
4体の像にはその外見から「女」・「山王権現」・「僧(法師)」・「男」とそれぞれに愛称がつけられてます。
高取城への登山道の途中にも猿石と呼ばれる石像が1体だけ置かれている(もとは同じ場所にあったものを移した?)そうなのですが、そこはまだ行ったことがございません。

鬼の雪隠 ↑ 鬼の俎ってのもすぐ横にあります。でかいです!多分、古墳用の石なのでしょうが。。。
他にも亀石・二面石(橘寺境内)・益田岩船などなど。。。どれもステキです💛

前に推古天皇の宮や陵墓について書きましたが、一代おいて即位した女性天皇、皇極天皇、重祚(一度退位して復活~)した斉明天皇は土木工事を多く実施。これらの石造物は、ほとんどが彼女に関係するといわれています。その中で酒船石遺跡が石造物の謎をとく、もっとも重要な遺構なのではないでしょうか。。。

ちなみにこの飛鳥時代、「日本国創成のとき―飛鳥を翔(かけ)た女性たち―」というテーマで日本遺産に登録されています。
「女性が国づくりの原動力
日本で初めての女帝であった推古天皇は、巫女(シャーマン)的要素を備えつつも、仏教の興隆に力を注いだ。従来どおり神々が宿る自然を厚く敬いながらも、新しい仏教を取り込み、いわば神仏が調和した国づくりをはじめた。そして、東アジア世界と正面から向き合った女性でもある。このような女性の力は、次の女帝・皇極(斉明)天皇にも受け継がれている。(後略)」(日本遺産ポータルサイトから引用)

あなたの知らない 高野山へ2020年05月18日

失礼なタイトル。。知っていたらごめんなさい。

和歌山県にある、「高野山」は「紀伊山地の霊場とその参詣道」として世界遺産に登録されています。多くの人は南海電鉄高野線で極楽橋へ。そこからケーブルカーで山上の宗教都市を目指します。そしてそこで弘法大師空海が開いた多くの伽藍・建造物を見て感動するはずです。

随筆家白洲正子さんの著書「かくれ里」には、高野山の中腹、神々住まう高天原に例えた天野の地に鎮座する丹生都比売神社と周辺天野の里の紹介が書かれています。こちらへは車で行くことになりますが、世界遺産になってからは、訪問者も増えているようです。


↑ 丹生都比売神社

丹生神社は白洲さんによれば、全国に138か所あるそうで、その半分以上が和歌山県に集中していると書かれています。(和歌山神社庁のホームページから「丹生」で検索しますと32社がヒット致しました。いずれにしてもかなりの数です。
「丹」は朱砂の鉱石から採取される朱を意味しており、『魏志倭人伝』にも既に古代邪馬台国の時代に丹の山があったことが記載されているそうで、、その鉱脈のあるところに「丹生」の地名と神社があるといわれています。

伝説によれば、丹生都比売大神の御子、高野御子大神は、密教の根本道場の地を求めていた弘法大師の前に、黒と白の犬を連れた猟師に化身して現れ(狩場明神)、高野山へと導きました。弘法大師は、丹生都比売大神よりご神領である高野山を借受け、山上大伽藍に大神の御社を建て守護神として祀り、真言密教の総本山高野山を開きました。

高野山は神仏習合の場でもあるといえます。
高野山内には、丹生都比売大神と高野御子大神(狩場明神)を祭る神社が点在して、小さな集落で守り伝えられ続けています。
通常のルートでは行かない、行けない、そんな神社に足を運んでみました。

↑ 伊都郡かつらぎ町大字宮本1番地に鎮座する丹生神社
ご祭神 丹生都比売神 高野御子神

由緒(和歌山県神社庁HPより)
勧請年月日は不詳なれども明治維新に至るまで高野山地頭の信仰篤く、年々祭祀料、米10石を寄進せられ其の他臨時の営繕には、特に米幣を寄せられる例多し、神功皇后、三韓征伐の時、特に祈願あり神賽として和泉の国、葛城の他を神地として寄せ給ふと言い伝えられている。
毎年6月8日神楽を奏し、神湯を献じ葛城、高野先遠等来拝して崇厳を極めたと言われる、境内社として、高野神社、厳島神社、百合野神社、狩場大明神がある。
三野国牟毛津の未裔蔵吉人を丹生都比売神社に勤仕していたが、その子孫がこの地に住み狩猟を事としていた。
弘法大師が高野に登る際白黒2犬を率いて先導した、功績で里人等同人を神として祀り狩場明神と名づけたと伝えられている。

天野が白洲さんのおっしゃる「かくれ里」だとしますと、ここは「奥かくれ里」といえるかも知れません。。。(集落人口総数: 38 人 世帯総数: 16 世帯)

↑ 狛犬のデザインがオオカミっぽいのですが、これは弘法大師と出会ったときに、狩場明神が連れていた2匹の犬の姿ではないでしょうか?



神々の気配が感じられます。。。


明日香 豊浦寺跡 推古天皇即位の宮2020年05月15日

前回、黒岩重吾さんの小説「紅蓮の女王」を読んで推古天皇ご陵を訪問したことを書きました。
あのあたり「近つ飛鳥」って言います。「近つ飛鳥」という地名は、「古事記」に記載があります。
で、奈良県の明日香村あたりが、「遠つ飛鳥」だそうです。
推古天皇のご陵は「近つ飛鳥」ですが、活躍の場は当時の日本の首都「遠つ飛鳥」今の明日香村です。
即位した宮跡に行ってみました。
現在は浄土真宗のお寺向原寺(こうげんじ)の境内になります。
お寺の拝観は無料で、親切にご案内いただきました(^^)/
↑ これが発掘された豊浦宮(とゆらのみや)の遺構です!おおーっ
推古天皇はここで即位されしばらくしてからまた都を小墾田宮(おはりだのみや)に移します。(場所は奈良県明日香村の雷丘周辺が有力推定地)
豊浦寺はその豊浦宮の跡地に建立されたもので、周辺に遺構が残っています。

この時代の物部氏の廃仏派と蘇我氏の崇仏派の争い跡が、すぐ横に伝承地として残されています。
日本書紀によりますと、日本に初めて仏像が伝えられたのは、552年のことで(538年という説あり)、百済の聖明王から伝えられた。
当時の欽明天皇は献上された仏像の礼拝の可否を群臣たちに尋ねたところ、崇仏派の蘇我稲目(蘇我馬子の父)はその仏像を安置させるために、自分の邸宅を寺として立て直したそうで、それがここ豊浦寺です。
その後、国内に疫病が流行したため、排仏派の物部尾輿と中臣鎌子はそんな事態になったのは、外国の神である仏像を祀ったことに対する日本の神々の怒りであるとして、仏像を難波 (なにわ) の堀江に捨て、伽藍を焼き払ってしまったのだそうです。その難波の堀江に当たる場所がこちら ↓
 でも、ここ、豊浦寺の隣なんです。いくらなんでもちょっと近すぎでは?
(現在の大阪の難波の池とちゃうか~?との説もあり。。。そこは逆に遠すぎるかも。)

その捨てられた仏像は、600年に信濃の住人である本田善光なる人物が、たまたまこの難波の堀江にさしかかった時、「善光、善光」と、どこからともなく呼ばれるお声を聴き、そして驚くべきことに善光の目の前に、水中より輝く仏像が出現!そんなわけで長野に持ち帰り、善光寺を建立して安置したとの伝説があります。ちなみに善光寺の本尊は絶対秘仏のためご開帳されることはございません。。。

で、この仏像、江戸時代に、向原寺のすぐ横にある、この難波池からこの仏像の頭部だけが発見!
ややや~!伝説の仏像!
その後、京都の仏師が江戸時代に頭部以外の部分を鋳造、接合してあるそうでつまり、頭部は飛鳥時代に日本国内で造られ、首から下及び光背、台座は江戸時代の後補!
そして。。。実は1974年9月に盗難に遭っています。本堂内陣に祀られていた金銅製観音菩薩立像が厨子と共に姿を消したのです!
一度は盗難に遭った観音菩薩様ですが、オークションに出品されているのが見つかり、2010年9月、向原寺に無事お戻りになられました。 ↓
なんという数奇な運命でしょうか。。。。

明日香村に行かれましたら、是非この向原寺(豊浦宮・寺跡)にもお立ち寄り下さいませ。
そして、はるか飛鳥の昔に想いを馳せてみませんか。
それにしてもこの仏様のお顔・・・飛鳥仏のいわゆるアルカイックスマイルの感じられる素晴らしさ!合掌。
(写真は、展示パネルを撮影させていただきました。)

古代史探訪 推古天皇陵と叡福寺2020年05月14日

※  今(2020年5月)旅行・お出かけ系のブログをアップすると誤解されそうなので。。
訪問時期は以前です。その頃は、忙しくてブログ書いていられませんでした。それが今は。。。そんなわけでございます(;´д`)

王家の谷というエリアがあります。
エジプトのテーベ(現ルクソール)のナイル川、西岸位置する岩山の谷にある岩窟墓群です。
ここに古代エジプトの王族達の墓が集中していることからです。現在、24の王墓を含む64の墓が発見されているそうです。1979年に「古代都市テーベとその墓地遺跡」として世界遺産にも登録されています。

日本ってそういう世界の有名地を「日本の○○」という言い方するのってけっこう好きですよね。私も好きです(^^)/
例えばペルーの世界遺産マチュピチュは、日本のマチュピチュ「竹田城跡」(兵庫県)、イタリアの世界遺産アマルフィは、日本のアマルフィ「和歌浦」(和歌山県)などなど、いっぱいあります。
でも実際に行ってみますと、オイオイ違うぞーって言いたくなるものがほとんどなのですが、そりゃあ当たり前でしょー('ω')

大阪は南河内郡太子町界隈の「近つ飛鳥」エリア(ここには日本最初の官道である竹内街道が通っています。)には、敏達天皇(30代)、用明天皇(31代 聖徳太子の父)、推古天皇(33代)、孝徳天皇(36代)の陵墓や叡福寺の境内には聖徳太子の御廟があります。ほかにも遣隋使小野妹子の墓や多くの古墳があり、このエリアは日本版「王家の谷」と呼ばれています(^^)/

大阪の「百舌鳥・古市古墳群」が世界遺産に登録されて、古墳ファンも増えたとのことですが、普通の観光地とは違って、(宮内庁の治定が正しいかどうかは別としても)お墓であることは間違いありません。尊厳を保つようにしたいものです。まあ、古墳って、現在ではほとんど森としかみえませんから、ポイントはやはり想像力で古代の風景やロマンに想いを馳せることでしょうね~!

私、古代史が大好きで、今回は黒岩重吾さんの小説「紅蓮の女王」を読んで、日本の王家の谷エリアにいってまいりました~

「暗雲はらむ古代日本。大王家をめぐって権謀が渦まくなか、絶世の美貌の身を恋の激情にゆだねる炊屋姫。そして、強敵物部氏を滅亡に追いつめてゆく、冷徹な政治家蘇我馬子。
二人の像を中心に、推古女帝即位にいたる激動の古代を彩る人間ドラマを鮮かに描いた、壮大な歴史小説。」(「BOOK」データベースより)
小説では蘇我馬子のキャラクター描写が秀逸で、是非ドラマ化希望!って古代史のテレビドラマってほとんどないんですよね~
推古天皇(炊屋姫)役は何といっても高島礼子さんかな。でもご年齢がな~。(推古天皇即位前で30歳ぐらい~)、鈴木京香さんもいけそうだが、ご年齢がな~。なんでもこなせる女優、綾瀬はるかさんはどうだ?ちょっと違うか?そうだ。。波留さんでいこう!
彼氏の三輪 逆(みわのさかう)は誰がいいだろー?高橋克典さんあたりか。マッチョな警備担当武士という役柄です。でもまあ男優は誰でもいいやって。。オイオイ(*'ω'*)
権謀術策をめぐらす蘇我馬子は誰にしようかな。ライバル激情的性格の物部守屋は誰がいいだろーて、番組プロデューサーにでもなった妄想です。。


日本初の女性天皇(諸説あり)、お会いしたかったです~。というわけでこちら↑ 陵墓でございます。
磯長山田陵(しながのやまだのみささぎ)大阪府南河内郡太子町大字山田。子の竹田皇子との合葬陵墓。遺跡名称は「山田高塚古墳」。墳または長方墳だそうです。
参道が整備されており、ご参拝しやすいです。

こちらから、畦道を通って二子塚古墳にも歩いて行くことができます。二子塚古墳は墳形が双方形という特異なものです。双方墳という特異な形式は、合葬が一般化する古墳時代終末期の風習を受け、生み出されたと推測されていて被葬者は不明とのことですが、こちらが推古天皇・竹田皇子の真の合葬陵墓とする伝承があるそうなんです!なのでぜひ両方ご参拝くださいませ。

二子塚古墳から推古天皇陵 ↑(二子塚古墳西方約200メートル)

こちらは用明天皇陵墓、↑ 用明天皇は推古天皇の兄、聖徳太子の父。

そして叡福寺。こちらに聖徳太子の墓所とされる叡福寺北古墳(磯長墓〈しながのはか〉)があります。(諸説あり)寺伝によれば、聖徳太子は生前、推古天皇28年(620年)にこの地を墓所と定めたというでございます。

境内は静謐な空間が広がります。

聖徳太子御廟です。
ちなみに2021年は聖徳太子が薨去(こうきょ)されてから1400年を迎える節目の年となっています。
聖徳太子ゆかりのお寺巡りなどもしてみたいなーと思いつつ。。。合掌

二上山に登る2020年05月10日

二上山、いつかは登らねばなるまい。。。と勝手に思っていました(^^)/

自宅(大阪府河内長野市)から奈良方面に車で向かうとき、いつも国道165号線(並行して竹内街道)を使っていました。二上山の南麓を通過します。
二上山は、奈良県葛城市と大阪府南河内郡太子町にまたがる山で、北方の雄岳(517m)と南方の雌岳(474m)の2つの山頂があるいわゆる双耳峰です。石器に使われた讃岐岩(サヌカイト)の産地で、旧石器時代からの遺物が出土しています。また、太子町側は、「近つ飛鳥」(河内飛鳥)と呼ばれて、陵墓・古墳など、遺構が多く残っています。古代史ファンにはたまらないエリアですね。
今回は太子町側から雌岳を目指し、次回奈良側から雄岳を目指すことにしました。
(ちなみに初心者登山に向くと紹介されており、充分一日あれば雌岳、雄岳両峰回れます。)

二上山山麓公園、「万葉の森」駐車場に車をパーキングしてウオーキングスタート。


道はすぐに二股に分かれます。左が国史跡跡鹿谷寺(ろくたんじ)方向で、以前から行きたくてしょうがない場所でしたので、まずそちら方向へ。こちらはすぐに急斜面になりますが、なんとか登り切りました。


鹿谷寺は日本に現存する唯一の本格的な石窟寺院跡といわれ、奈良時代に作られたそうです。
現在は、十三重の多宝塔、岩窟に彫られた如来三尊坐像の線刻などしか残っていませんが、この十三重の石塔のレプリカが「近つ飛鳥博物館」にありまして、それを見て是非実物を見たいと思っておりました。石窟寺院といえば中国の敦煌にあります世界遺産「莫高窟」が有名ですが、日本にもここに存在していたんだなあと感激です。この周辺から日本最古の貨幣といわれる、「和同開珎」も出土したそうです。この山中に古代の貨幣が埋まっていたなんて!



鹿谷寺跡からけっこう尾根道を歩きます。途中にも展望台があり、景色を楽しむことができます。
そして30分ほどで、ついに雌岳山頂に到着!



山頂からの展望を楽しみつつ、ゆっくり休憩をとります。
(雄岳の方は、今回は行きませんがそちらからよりも展望が開けているらしいです)
大阪方面は大阪市内の高層ビル群や、遠く明石海峡大橋まで。
奈良方面は大和三山をはじめとする奈良盆地を見渡すことができます(^^)/

帰りは別ルート(周遊するよな感じになります)で、途中のポイントはまず、「石切り場跡」。ここで切り出した石が高松塚古墳の石棺などに使用されたそうで、それで、案内板が高松塚なんですね!
石は凝灰岩で、色が白っぽいことから二上山白石(しろいし)と呼ばれているそうです。



「石切り場跡」からしばらく下りますと、中将姫が當痲曼陀羅をここで織ったと云われている「岩屋」があります。こちらも古代の寺跡で、石窟になっていますが中を覗きますと、石塔が見えます。奈良時代の築造とのこと。
石窟の内部中央には3層の多層塔や石塔台座下部に涌水を溜める小さな坑、壁面には三尊立像の浮き彫りも見えますが、さすがにこれは剥落が著しく、光背部分の識別が辛うじて確認出来る程度です。
石窟上部の壁面には、何か所か円形の水平坑が穿たれているため、木造の覆屋構造があった可能性があると説明されています。



すぐ近くには樹齢約千年、高さ28m、根周り5.8mの「岩屋杉」が今は静かに横たわっています。



この辺りからの帰り道はおおむねなだらかです。
10時頃に登山開始したのですが、午前中には戻ってこられました。
二上山、単なる山歩きではなく、古代史の遺跡が随所にあって、いわば古代史ロマンの旅、楽しめました~。

古代遺跡としては雄岳山頂付近に「大津皇子」の墓と宮内庁により比定されている古墳※もあり、これはまた雄岳を目指して行かねば~!
※二上山山麓の鳥谷口古墳(奈良県葛城市染野)を真墓とする説が有力です。

大伯皇女が、藤原京から弟の大津皇子が眠る二上山を眺めて詠んだ歌
「うつそみの人にあるわれや明日よりは二上山(ふたかみやま)を弟(いろせ)とわが見む」
これは泣かせてくれますね~(;_;)