役行者 ゆかりの地 ― 2020年06月05日
古刹といわれる歴史ある寺院を訪問しますと、「役行者」開基という所が多くあります。
私の住む大阪府河内長野市の「観心寺」もそうですし、大阪府南河内郡河南町「弘川寺」、大阪府泉佐野市の「七宝瀧寺」、大阪府和泉市「松尾寺」、奈良県吉野町の「金峯山寺」、天川村の「大峯山寺」「龍泉寺」、御所市「転法輪寺」(金剛山上)などなどそれはもうきりがありません。
役行者とは?
7~8世紀に奈良を中心に活動しておられました、修験道の開祖とされている人物です。
↑ 泉佐野市 七宝瀧寺に祀られる尊像です。
「役行者」は「役小角(えんのおづの)」がその本名であると言われています。
「神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)」とも言われますが、これは光格天皇が、寛政十一年(1799)、役行者に贈った諡号(しごう)です。
多くの伝説が残されており、私は役行者を日本のファーストX-MENと呼んでいます(^^)/
幼少のころ頭に角があったとも。
恐らく念能力で物質を動かすことができる系のミュータントですね。
物質証拠としては、鳥取県にある三徳山三佛寺投入堂です。役小角が法力で建物ごと平地から投げ入れたという伝承が残されています。https://www.tottori-guide.jp/tourism/tour/view/168
役行者は、鬼神を使役できるほどの法力を持っており、前鬼と後鬼を従えた姿が有名です。
前鬼・後鬼は、夫婦の鬼で前鬼が夫、後鬼が妻
↓ こちらは天川村洞川 龍泉寺の前鬼・後鬼の雄姿
写真右 夫の前鬼は赤鬼で鉄斧を手にし、役行者の前を進み道を切り開きます。
現在の奈良県吉野郡下北山村出身とされています。
写真左 妻の後鬼は、青鬼で、霊力のある水が入った水瓶を手にし、種を入れた笈を背負っていることが多いそうです。現在の奈良県吉野郡天川村出身とされています。
↑ 龍泉寺の境内、「龍の口」と呼ばれる泉から湧き出る清水は、修験者たちから「清めの水」とされて、大峰山の第一の水行場とされるなど、修験道の道場として有名です。
洞川から大峰山(山上ヶ岳)を登る修験者は、宗派を問わず、龍泉寺で水行の後、八大龍王尊に道中の安全を祈願するのが慣例となっています。
↑ 大峰本宮 天河大辨財天社
別名天河神社ともいい、日本三大弁財天の筆頭・大峯本宮とされる神社で、芸能の神様としても有名です。能関係資料多数が保存され、我が国能楽発達史上の貴重な資料とされています。
弘法大師 空海は、同神社への参籠や大峯の山中で修行によって神仏習合の密教を「あ字観」として完成したそうです。おおーっ!ここで。。。そうだったんだ。
それにしても、神様、いくらなんでも少々、サイズが小さすぎるのでは。。。( ;∀;)
↑ こちらは、奈良県御所市にある役行者、生誕地 吉祥草寺
木造役行者母公坐像も、他に遺品の少ない貴重な作例です。
(母想いなエピソード)
役行者は大峯山(山上ヶ岳)に向かい修行をしていました。
この修行を案じた役行者の母、渡都岐(とつき)白専女は、役行者の弟子・後鬼の案内で葛城山の麓、茅原から険しい峠や山河を越えて、役行者が山籠りして修行している大峯山に一番近い、洞川の蛇ケ谷まで会いに来ましたが、この谷を渡ろうとすると、一匹の大蛇が行く手を阻み、どうしても渡ることが出来ません。後鬼と替わるがわる何度試みても駄目でした。このことを知った孝行心の篤い役行者は、このままでは母は私を心配して命の危険な山中を何処までも心配して追っかけて来るだろう。蛇ケ谷に庵を建て母に住んでもらい、身の回りのことを後鬼に頼み、私自身が時々母を訪ねることにすれば、母も安心して留まってくれるだろうと、洞川の人たちに頼んで母の庵を建ててもらい、母公堂と庵の名を付けました。 ↓ 天川村洞川の母公堂
また役行者は母を思う心から、母が後を追わないようにと「女人入山禁止の結界門」を建てました。これが「女人禁制」の始まりであり、1300有余年後現在も守り続けられています。↓
※ 現在は山上ヶ岳の登山口にある女人結界門まで女性も進むことができます
(びっくり仰天なエピソード)
役行者様、ある時、葛木山と金峯山の間に石橋を架けようと思い立ち、諸国の神々を動員してこれを実現しようとします。。ところが、葛木山の神、「一言主」は、夜間しか働かなかったのです。役行者は「一言主」を、折檻して責め立てたそうな!(神様相手に無茶苦茶でんがな~)
すると、それに耐えかねた「一言主」は、天皇に役行者が謀叛を企んでまっせと訴えため、(一言主もあなた神様なんだから~って突っ込みたくなるところではあります・・・)役行者は彼の母親を人質に取られ、(母親想いの弱点を突かれたか!?)朝廷によって捕縛され、伊豆大島へと流刑になったとか。。。
↑ 葛木 一言主神社 乳だれの大イチョウが有名です。
役行者の生涯に関して、史料としては「続日本紀」に記述がありますが、伝承によるところが大きく、「日本霊異記」などに、当時流布していた話を元にして書かれているようです。荒唐無稽な話と思われるかもかもしれませんが。。。
ところで、行者(ぎょうじゃ)とは、○○の修行を行う者の意味で、特に断食や針山の上に坐禅をするなどの苦行の行者が有名です。
お釈迦様も悟りを開く前に、苦行をしていた事で知られています。
日本では、特に山岳修行を行う者を指すようになり、修験道(しゅげんどう)と呼ばれる宗教となりました。
明治の頃、軍の陸地測量部の測量官に、未踏峰とされてきた剱岳への初登頂と測量の命令が下ります。
それは日本地図最後の空白地帯を埋めるという重要かつ困難を極める任務だったのです。
ベテラン山案内人とともに測量に挑んだ男たちは、ガレ場だらけの切り立った尾根と悪天候・雪崩などの厳しい自然環境、ライバル日本山岳会との登頂争い、未発達な測量技術と登山装備など様々な困難と戦いながら測量を行います。
木喰(食) 上人 ― 2020年06月02日
一般的に「木食」とくると、「木喰仏」(もくじきぶつ)の作者である仏師「木喰上人」(1718年~ 1810年)のことを思い浮かべると思います。・・・といってもそのジャンル(仏像彫刻)が好きな人だけでしょうけれども。。。
私はNHKのEテレの番組、日曜美術館「微笑(ほほえ)む仏~柳宗悦が見いだした木喰仏~」で知りました。
この方は生涯に三度改名し、木喰五行上人、木喰明満上人などとも称したそうですが、本名が何なのかよくわかりませんので、「木喰上人」で押し通されているようです。
木喰より1世紀ほど前の時代に活動した、仏師円空(1632年 - 1695年)もまた木喰僧ですが、円空の場合あまり木喰円空とは言われません。
このお二人は、仏師であるという共通点があり、恐らく「木喰上人」は円空の仏像彫刻の影響を受けています。
上画像 円空 下画像 木喰
円空の荒削りで野性的な作風に比べると、木喰の仏像は微笑を浮かべた温和なものが多いです。
「木食(もくじき)とは、固有名詞ではなく、草木しか食べない修行僧のことです。穀物さえも断ち、草や木の実だけを食して行を受ける人たちです。」と、私の尊敬する人のブログから知ることができました。
おーそういうことか!なるほど~ 究極のベジタリアン。。。
ブログによりますと、修行である木食の開祖は弾誓(たんぜい、1552年~1613年)。尾張国の出身9歳で出家後、諸国を行脚して修行の後、京都の大原に古知谷阿弥陀寺を開山、そこで62才の時、自ら石棺に入り即身仏となったと伝えられています。古知谷カエデと呼ばれる樹齢800年以上の古木もあるそうで、いつか是非訪問したいお寺です。(秋とか素晴らしいのでしょうね。)
京都府南丹市八木町には、「木喰上人」最晩年の仏像(羅漢像)が残されているお寺、清源寺があり、こちらも行ってみたいです。
高野山の麓に橋本市(和歌山県)があります。
木食応其(もくじきおうご)は、橋本市では応其上人と呼ばれ、尊敬されています。出身は近江のお侍、38歳で高野山において出家し、高野山に興山寺(青巌寺と合併して現在の金剛峯寺になっています)を創建したほか、行基の再来ともいわれるほど、各地で寺社の造営に尽力しています。
豊臣秀吉が発願した大仏(盧舎那仏)を安置するための寺、京都の方広寺も応其上人によって創建されました。京都の地名で上人町(京都市東山区問屋町通)は、方広寺造営の際に招致された応其が、五条大橋東詰南側付近に草庵を営んだのが地名の由来になったという説もあります。(京都観光文化検定出題予想😁)
応其上人、実は豊臣秀吉にめちゃくちゃ気に入られています。秀吉が紀州を攻めて根来寺・粉河寺・雑賀を攻略した後、高野山に対して降伏を求めた時、和睦交渉で力を尽くしたからです。
高野山に向かうため、紀の川に長さ約236mの橋を架けました。「橋本」の地名はこれによるものと伝えられています。おーっそうだったんだ(^^)/
橋本橋という右から読んでも左から読んでも、はしもとはしという名前の橋がありますが、その橋お近くに応其上人が開基のお寺、応其寺があります。 ↓
また、現在の地図を見ても橋本市~高野山には多くの池が見えますが、その大半は応其上人が工事をされたと伝わっており、この土木事業ぶりがやはり行基の再来~!
応其上人は関ヶ原の戦い以降、晩年は連歌の規則や作法を記した『無言抄』を出版した後、1608年10月1日に入定。行年73歳。
辞世の句は「あだし世を めぐり果てよと 行く月の きょうの入日の 空にまかせん」
高野山奥の院に程近い場所に廟所があります。
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過去の部分では、西暦663年、白村江の戦いで倭・百済軍が唐・新羅連合軍に惨敗しするところからお話は始まります。百済王一族の兵士・ハリマは、唐軍に捕らえられ、生きながらに顔の皮をはがれ、狼の皮を被せられてしまいます。狼の顔を持ったハリマは、不思議な老婆に助けられ、老婆、そして瀕死のところを助けた大将軍、阿倍比羅夫と共に倭国へやってきます。物語の舞台は当然、飛鳥の都になります。
日本古来の産土神(漫画では狗族という狐っぽい一族)と仏教の四天王が、実際に戦ったり、当時の仏教が日本に浸透し、天智天皇やら大海人皇子も登場して、仏教が災いになるだの、いや仏教に帰依するだのといった混乱が描かれています。
飛鳥資料館に展示されている石人像 ↑
岩に座った男性に女性が後ろから手をそえているのでしょうか。男性の足元から口まで内部に細い管が通り、途中で女性の口にも分岐しているのだそうで、噴水施設であったと推測されています。
ブラタモリでなんか実験やってましたね。。石人像の風貌から男女のモデルをペルシャ・インドに求める説もあります。うーむ、この時代に遠路はるばる。。。聖徳太子ペルシャ人説、ゾロアスター教説なんかも興味あります('ω')
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