木喰(食) 上人 ― 2020年06月02日
一般的に「木食」とくると、「木喰仏」(もくじきぶつ)の作者である仏師「木喰上人」(1718年~ 1810年)のことを思い浮かべると思います。・・・といってもそのジャンル(仏像彫刻)が好きな人だけでしょうけれども。。。
私はNHKのEテレの番組、日曜美術館「微笑(ほほえ)む仏~柳宗悦が見いだした木喰仏~」で知りました。
この方は生涯に三度改名し、木喰五行上人、木喰明満上人などとも称したそうですが、本名が何なのかよくわかりませんので、「木喰上人」で押し通されているようです。
木喰より1世紀ほど前の時代に活動した、仏師円空(1632年 - 1695年)もまた木喰僧ですが、円空の場合あまり木喰円空とは言われません。
このお二人は、仏師であるという共通点があり、恐らく「木喰上人」は円空の仏像彫刻の影響を受けています。
上画像 円空 下画像 木喰
円空の荒削りで野性的な作風に比べると、木喰の仏像は微笑を浮かべた温和なものが多いです。
「木食(もくじき)とは、固有名詞ではなく、草木しか食べない修行僧のことです。穀物さえも断ち、草や木の実だけを食して行を受ける人たちです。」と、私の尊敬する人のブログから知ることができました。
おーそういうことか!なるほど~ 究極のベジタリアン。。。
ブログによりますと、修行である木食の開祖は弾誓(たんぜい、1552年~1613年)。尾張国の出身9歳で出家後、諸国を行脚して修行の後、京都の大原に古知谷阿弥陀寺を開山、そこで62才の時、自ら石棺に入り即身仏となったと伝えられています。古知谷カエデと呼ばれる樹齢800年以上の古木もあるそうで、いつか是非訪問したいお寺です。(秋とか素晴らしいのでしょうね。)
京都府南丹市八木町には、「木喰上人」最晩年の仏像(羅漢像)が残されているお寺、清源寺があり、こちらも行ってみたいです。
高野山の麓に橋本市(和歌山県)があります。
木食応其(もくじきおうご)は、橋本市では応其上人と呼ばれ、尊敬されています。出身は近江のお侍、38歳で高野山において出家し、高野山に興山寺(青巌寺と合併して現在の金剛峯寺になっています)を創建したほか、行基の再来ともいわれるほど、各地で寺社の造営に尽力しています。
豊臣秀吉が発願した大仏(盧舎那仏)を安置するための寺、京都の方広寺も応其上人によって創建されました。京都の地名で上人町(京都市東山区問屋町通)は、方広寺造営の際に招致された応其が、五条大橋東詰南側付近に草庵を営んだのが地名の由来になったという説もあります。(京都観光文化検定出題予想😁)
応其上人、実は豊臣秀吉にめちゃくちゃ気に入られています。秀吉が紀州を攻めて根来寺・粉河寺・雑賀を攻略した後、高野山に対して降伏を求めた時、和睦交渉で力を尽くしたからです。
高野山に向かうため、紀の川に長さ約236mの橋を架けました。「橋本」の地名はこれによるものと伝えられています。おーっそうだったんだ(^^)/
橋本橋という右から読んでも左から読んでも、はしもとはしという名前の橋がありますが、その橋お近くに応其上人が開基のお寺、応其寺があります。 ↓
また、現在の地図を見ても橋本市~高野山には多くの池が見えますが、その大半は応其上人が工事をされたと伝わっており、この土木事業ぶりがやはり行基の再来~!
応其上人は関ヶ原の戦い以降、晩年は連歌の規則や作法を記した『無言抄』を出版した後、1608年10月1日に入定。行年73歳。
辞世の句は「あだし世を めぐり果てよと 行く月の きょうの入日の 空にまかせん」
高野山奥の院に程近い場所に廟所があります。
役行者 ゆかりの地 ― 2020年06月05日
古刹といわれる歴史ある寺院を訪問しますと、「役行者」開基という所が多くあります。
私の住む大阪府河内長野市の「観心寺」もそうですし、大阪府南河内郡河南町「弘川寺」、大阪府泉佐野市の「七宝瀧寺」、大阪府和泉市「松尾寺」、奈良県吉野町の「金峯山寺」、天川村の「大峯山寺」「龍泉寺」、御所市「転法輪寺」(金剛山上)などなどそれはもうきりがありません。
役行者とは?
7~8世紀に奈良を中心に活動しておられました、修験道の開祖とされている人物です。
↑ 泉佐野市 七宝瀧寺に祀られる尊像です。
「役行者」は「役小角(えんのおづの)」がその本名であると言われています。
「神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)」とも言われますが、これは光格天皇が、寛政十一年(1799)、役行者に贈った諡号(しごう)です。
多くの伝説が残されており、私は役行者を日本のファーストX-MENと呼んでいます(^^)/
幼少のころ頭に角があったとも。
恐らく念能力で物質を動かすことができる系のミュータントですね。
物質証拠としては、鳥取県にある三徳山三佛寺投入堂です。役小角が法力で建物ごと平地から投げ入れたという伝承が残されています。https://www.tottori-guide.jp/tourism/tour/view/168
役行者は、鬼神を使役できるほどの法力を持っており、前鬼と後鬼を従えた姿が有名です。
前鬼・後鬼は、夫婦の鬼で前鬼が夫、後鬼が妻
↓ こちらは天川村洞川 龍泉寺の前鬼・後鬼の雄姿
写真右 夫の前鬼は赤鬼で鉄斧を手にし、役行者の前を進み道を切り開きます。
現在の奈良県吉野郡下北山村出身とされています。
写真左 妻の後鬼は、青鬼で、霊力のある水が入った水瓶を手にし、種を入れた笈を背負っていることが多いそうです。現在の奈良県吉野郡天川村出身とされています。
↑ 龍泉寺の境内、「龍の口」と呼ばれる泉から湧き出る清水は、修験者たちから「清めの水」とされて、大峰山の第一の水行場とされるなど、修験道の道場として有名です。
洞川から大峰山(山上ヶ岳)を登る修験者は、宗派を問わず、龍泉寺で水行の後、八大龍王尊に道中の安全を祈願するのが慣例となっています。
↑ 大峰本宮 天河大辨財天社
別名天河神社ともいい、日本三大弁財天の筆頭・大峯本宮とされる神社で、芸能の神様としても有名です。能関係資料多数が保存され、我が国能楽発達史上の貴重な資料とされています。
弘法大師 空海は、同神社への参籠や大峯の山中で修行によって神仏習合の密教を「あ字観」として完成したそうです。おおーっ!ここで。。。そうだったんだ。
それにしても、神様、いくらなんでも少々、サイズが小さすぎるのでは。。。( ;∀;)
↑ こちらは、奈良県御所市にある役行者、生誕地 吉祥草寺
木造役行者母公坐像も、他に遺品の少ない貴重な作例です。
(母想いなエピソード)
役行者は大峯山(山上ヶ岳)に向かい修行をしていました。
この修行を案じた役行者の母、渡都岐(とつき)白専女は、役行者の弟子・後鬼の案内で葛城山の麓、茅原から険しい峠や山河を越えて、役行者が山籠りして修行している大峯山に一番近い、洞川の蛇ケ谷まで会いに来ましたが、この谷を渡ろうとすると、一匹の大蛇が行く手を阻み、どうしても渡ることが出来ません。後鬼と替わるがわる何度試みても駄目でした。このことを知った孝行心の篤い役行者は、このままでは母は私を心配して命の危険な山中を何処までも心配して追っかけて来るだろう。蛇ケ谷に庵を建て母に住んでもらい、身の回りのことを後鬼に頼み、私自身が時々母を訪ねることにすれば、母も安心して留まってくれるだろうと、洞川の人たちに頼んで母の庵を建ててもらい、母公堂と庵の名を付けました。 ↓ 天川村洞川の母公堂
また役行者は母を思う心から、母が後を追わないようにと「女人入山禁止の結界門」を建てました。これが「女人禁制」の始まりであり、1300有余年後現在も守り続けられています。↓
※ 現在は山上ヶ岳の登山口にある女人結界門まで女性も進むことができます
(びっくり仰天なエピソード)
役行者様、ある時、葛木山と金峯山の間に石橋を架けようと思い立ち、諸国の神々を動員してこれを実現しようとします。。ところが、葛木山の神、「一言主」は、夜間しか働かなかったのです。役行者は「一言主」を、折檻して責め立てたそうな!(神様相手に無茶苦茶でんがな~)
すると、それに耐えかねた「一言主」は、天皇に役行者が謀叛を企んでまっせと訴えため、(一言主もあなた神様なんだから~って突っ込みたくなるところではあります・・・)役行者は彼の母親を人質に取られ、(母親想いの弱点を突かれたか!?)朝廷によって捕縛され、伊豆大島へと流刑になったとか。。。
↑ 葛木 一言主神社 乳だれの大イチョウが有名です。
役行者の生涯に関して、史料としては「続日本紀」に記述がありますが、伝承によるところが大きく、「日本霊異記」などに、当時流布していた話を元にして書かれているようです。荒唐無稽な話と思われるかもかもしれませんが。。。
ところで、行者(ぎょうじゃ)とは、○○の修行を行う者の意味で、特に断食や針山の上に坐禅をするなどの苦行の行者が有名です。
お釈迦様も悟りを開く前に、苦行をしていた事で知られています。
日本では、特に山岳修行を行う者を指すようになり、修験道(しゅげんどう)と呼ばれる宗教となりました。
明治の頃、軍の陸地測量部の測量官に、未踏峰とされてきた剱岳への初登頂と測量の命令が下ります。
それは日本地図最後の空白地帯を埋めるという重要かつ困難を極める任務だったのです。
ベテラン山案内人とともに測量に挑んだ男たちは、ガレ場だらけの切り立った尾根と悪天候・雪崩などの厳しい自然環境、ライバル日本山岳会との登頂争い、未発達な測量技術と登山装備など様々な困難と戦いながら測量を行います。
高野山と犬たちのお話 ― 2020年06月06日
私、ラブラドールレトリバーの黒犬を飼っていたことがあります。
名前はジョンと名付けました。
犬の名前としては、最も平凡と思わせて・・・私が好きなジャズプレイヤー John William Coltraneから名付けてます(^^)/ 色も黒ですしね~。
↑ 犬のジョン 在りし日の雄姿 ↑ ジャズプレイヤーのジョン 在りし日の雄姿
ええ、犬・猫は好きですね。猫を飼ったら、マイルスって名前つけるつもりです。(マイケルじゃないですよ。)はい、ジャズトランぺッター Miles Dewey Davis III からパクります。
でもどっちかといえば、私には犬の方がなついてくれる気がします。
高野山の麓、九度山町に世界遺産の登録資産にもなっている、古刹「慈尊院」(弥勒菩薩の別名)があります。
こちらのご本尊は弥勒菩薩様ですが、秘仏で何と21年に一度の御開帳です。(21年に一度桧皮屋葺替の際、ご本尊をお移しのために。弘法大師空海の命日が21日ということに因んでとの説もあり)
はい、前回の御開帳の際、拝観させていただきました~!(^^)!
この国宝仏ですが、専門家の眼に初めて触れたのは、昭和35年(1960)のことだそうです。国宝に指定されるほどの見事な傑作仏像が、新たに発見されるなどということは、めったにある事ではないと思います。
明治17年(1884)、国より調査依頼を受けたアーネスト・フェノロサと岡倉天心が、法隆寺夢殿厨子と救世観音菩薩像の公開を法隆寺に求め、長い交渉の末、公開されたという事件に匹敵するのではないでしょうか。(現在、救世観音菩薩は春・秋年2回御開帳)
昭和に入ってからの発見では、昭和12年(1937)の興福寺(旧山田寺)仏頭の東金堂本尊台座下からの発見にも匹敵するかと。(こちらは仏頭のみ。現在は興福寺国宝館にて常時拝観可能です。)
話が仏像にいってしまいましたが、慈尊院は弘仁7年(816)、弘法大師が高野山開創の時、高野山参詣の表玄関として伽藍を創建し、高野山一山の庶務を司る政所を置いて、高野山への宿所ならびに冬期避寒修行の場とされたのが始まりだそうです。また弘法大師の母君
(玉依御前 : たまよりごぜん)が香川県善通寺より、我が子空海の開いている山を一目見たいとの思いから、高齢にも関わらず慈尊院に参られ、ご本尊弥勒菩薩を篤く尊崇せられたそうですが、母君が亡くなられた際に弘法大師は、廟堂の建立と弥勒仏を自作して、母君の霊を安置されたと伝わります。
そんな慈尊院に昭和60年代に、紀州犬と柴犬の雑種が住み着きました。慈尊院から聞こえる鐘の音を好んでいたため、つけられた名前は「ゴン」(^^)/
↑ 【新装版】高野山の案内犬ゴン ハート出版
何とこのゴン、最初の頃は九度山駅と慈尊院の間を参拝者を案内するのですが、そのうちに高野山町石道の約20kmの道のりを朝、慈尊院を発って、夕方に高野山上の大門まで道案内し、(慈尊院からスタートして大門まで8時間ほどかかります!)夜には慈尊院に戻るという毎日を送るようになったのです!
約1200年前、弘法大師空海が高野山を開くに際して、狩場明神とおっしゃる神様と出会ったとき、猟師の姿をして2匹の黒犬を連れていたそうな。
↓ こんな感じ
ゴンは2002年6月5日(5日は弥勒縁、弘法大師母君命日!)息を引き取りました。
「弘法大師の案内犬の再来・生まれ変わり」「お大師さんの犬」などと参詣者から親しまれ、愛されてきたゴンを惜しみ、慈尊院境内の弘法大師像の横に「高野山案内犬ゴンの碑」が建てられています。
↑ なかなかカワイイ
(後日談)2000年6月5日(初代の命日)からゴールデンレトリバーの雑種で2代目ゴンが飼われているそうです。ただ2代目は参拝客をどこにも案内はしないそうでございます(‘ω’)
※ 地元の方からすでに2代目もお亡くなりになったと聞きました。
3代目は今のところ居ないようです。。。
高野山中腹の神社、丹生都比売神社にもご神犬「すずひめ号」「大輝号」が居られます。
行事の際にのみご登場とのことで、私はまだお会いできておりません。。。
ジャズと映画 part3 坂道のアポロン ― 2020年06月16日
映画「坂道のアポロン」を観ました。アニメもありますが実写版です。
2018年公開映画ですので、全然旬な話題ではないのですが。。だって知らなかったんですもの。だってその頃はまだ忙しかったんですもの。。。
原作は小玉ユキさんによる漫画で、「このマンガがすごい! 2009」オンナ編で1位を獲得、第57回小学館漫画賞一般向け部門を受賞というなかなかの作品だったのでございます。
(以下、どうしても多少ネタバレになります。。。)
青春映画ですね。人間関係は、概ねこんな感じ。
ピアノ ドラム ボーカル
西見 薫→ 友情 ←川渕 千太郎← 幼馴染💛 迎 律子
↓尊敬 ↓💛 ↑親子
桂木 淳一←💛友里恵 迎 勉
トランペット 画学生 ベース
💛関係が典型的でわかりやすくてイイですね~ 薫は律子に💛です
東京のドクター、西見薫はピアノが特技らしく病院で子供に頼まれてちょこっと弾いてみたりしています。彼の机の上には高校時代の写真とロザリオが飾られています。。↓
時代設定とロケ地も最高です!(原作者の出身地)
1966年初夏、男子高校生・西見薫は、横須賀から長崎県の佐世保市にある佐世保東高校に転校、「坂道が忌々しい・・」とつぶやきながら通学している所から物語は始まります。
薫は学校の屋上で誰もが恐れる不良、千太郎と運命的な出会いをします。
薫はクラシックピアノが好きなのでした。↓
転校して、クラスメートからは「東京の方から来た、ぼんぼんらしかよー・・・」と陰口をたたかれる中、クラス委員の律子が親切なので、「レコードが買えるところは?」と聞きますと、「うちの家においでよ~」と言われて「それはいくらなんでも早すぎでは~💦」と思いつつ、お家に行きます。するとお家がレコード屋さん!というおちですね。 このレコード屋さんというのがイイですね。
そーそー。この時代、町には本屋さんがあるように、レコード屋さんがあったんですよ。
#1 モーニン(Moanin')
#2 サマータイム(summertime)
#3 いつか王子様が(Someday
My Prince Will Come)
#4 バット・ノット・フォー・ミー(But
not for me)
#5 バードランドの子守唄(Lullabys
of Birdland)
#6 ユー・ドント・ノウ・ホワット・ラブ・イズ(You don't know what love is)
#7 ナウズ・ザ・タイム(Now's
the time)
#8 ジーズ・フーリッシュ・シングス(These
foolish things)
#9 ラヴ・ミー・オア・リーヴ・ミー(Love
me or leave me)
#10 イン・ア・センチメンタル・ムード(In A Sentimental Mood)
#11 レフト・アローン(Left
Alone)
#12 オール・ブルース(All
Blues)
不動山の巨石 ― 2020年06月17日
雨降りだからジャズでも聴こう ― 2020年06月18日
2020年6月18日・・・今日は終日雨でした。
雨の日、基本的に外出しない。気分はどちらかといえば鬱。そんなとこでしょうか。
雨の日、遊びで外出して気分もウキウキだぜーは、まあ普通ないでしょう。。
植草甚一さんの「雨降りだからミステリーでも勉強しよう」(晶文社)という本があります。
↓ 私が持っているのは単行本の方です。
この本のタイトルがおしゃれやなあ。というわけでパクりました。いやすでに多くの方が「雨降りだから~しよう」とパクりまくっている気がします。
で、音楽JAZZなど聞いて過ごそーという段取りなのですが。とりあえず何を聴くか?
曲から入ることにしましょう。雨にひっかけて "Here's That
Rainy Day" の入っているアルバムでいこう。
楽器はギターが気分かな。ウエス・モンゴメリーにもありますが、ウエスは乾いたイメージにつき、ケニー・バレルで決定~!アルバムは “Soul Call” "Here's That Rainy Day" は6曲目に入っています。よし!
で、聞きながら読書です。ここで、ハードなジャズファンからは「なんやとお~!流し聞きとは何事ぞ!一音も逃さぬようミュージシャンと対峙するのじゃあ!」とお叱りを受けるところなのですが、まあまあ・・・
ジャズのいいところは楽器だけで演奏されること。(いやジャズボーカルもありますけど、私あまりそっちは好きくないので。だってボーカルつまり歌詞があればそっちに気を取られちゃいますもんね。)
"Here's That Rainy Day" もほんとは歌詞つきです(^^♪
作詞/ジョニー・バーク Johnny
Burke
作曲/ジミー・ヴァン・ヒューゼン
Jimmy Van Heusen
歌詞は ↓
Maybe I should have saved those leftover
dreams
Funny but here's that rainy day
Here's that rainy day they told me about
And I laughed at the thought That it might
turn out this way
Where is that worn out wish that I threw
aside
After it brought my love so near
Funny how love becomes a cold rainy day
Funny that rainy day is here
It's funny how love becomes a cold rainy
day
Funny that rainy day is here
ケニー・バレルといえば1963年録音、Blue Noteの有名盤 “Midnight Blue” がありますが、
“Soul Call” は1964年録音の Prestige 盤です。録音エンジニアはどちらも Rudy Van Gelder。楽器編成もほぼ同じですが、“Soul Call” はサックスが入っていませんので、よりケニー・バレルのギターサウンドを堪能できます。うん、いいチョイスやな!(^^)!
で、本ですが、何にしようかな。。。
古代史が好きなので、梅原猛さんの著書の中から「神々の流竄」(集英社文庫)でも。梅原さんの著作、文体独特の癖があってなかなか手ごわいのですがまあ面白いです。
役行者ゆかりの地が日本遺産に ― 2020年06月19日
もうずいぶん前のことですが、奈良県大峯山の登山口、洞川温泉を旅した時から役行者という人物に興味を持ちまして、最近になってまたゆかりの地など訪ねていました。
本日2020年6月19日付で文化庁から日本遺産の発表があって、その中に和歌山市から奈良県に連なる和泉山脈の『「葛城修験」 里人とともに守り伝える修験道はじまりの地』が含まれていました!おおー!
ストーリーの概要 ↓ (報道発表より)
和歌山~大阪~奈良の境に聳える葛城の峰々。修験道の開祖と言われる役行者がはじめて修行を積んだこの地は、世界遺産の吉野・大峯と並ぶ「修験の二大聖地」と称されています。この地には、役行者が法華経を1品ずつ埋納したという28の経塚があり、今も修験者たちは、その経塚や縁の寺社、滝や巨石を巡ります。そしてその修行にはいつの時代も、この地に暮らす人々との深いつながりがありました。
修験者や地域の人々が大切にしてきた聖地「葛城修験」――修験道の歴史は、ここから始まりました。
「寶雲山(ほううんざん)小峯寺」は、延宝6年(1678)に鋳造された梵鐘の銘文に「小峯山は奈良時代、役行者が滞在し、修練したところで、小峯寺はこのときに始まる」、また「山は五色の霧が立ちこめることから、山号を寶雲山、小峯寺の名は修験道の霊場・大和国大峯山に対比していう」という意味の文が記されています。
大峯山に対して小峯。ほ~、ふむふむ。そうだったんだ。
3月の初めには、昔ながらの修験者の儀式が行われていて、大護摩祈祷が山伏とともに営まれ、その護摩を焚いた灰の上を、素足で火渡りも行うそうです。
二實修験道、葛城根本道場としての役目のあるお寺です。これは一度見学せねば!
↑小峯寺宝篋印塔(市指定文化財・地上高 180Cm)
南北朝時代後期の天授五年(南朝年号 1379年)の紀年銘を有する貴重な宝篋印塔です。全体的に見てバランスが良く美しいではないですか~。
相輪は下から、やや背の高い伏鉢・単弁請花・九輪・単弁請花・宝珠で完存しています。
紀の川流域では他に、かつらぎ町下天野にある、あの西行法師、妻・娘 宝篋印塔(南北朝時代後期、県指定文化財)がなかなか素晴らしいですね。
宝篋印塔墓塔とは、供養塔などに使われる仏塔の一種で、五輪塔とともに、石造の遺品が多いようです。
宝篋とは、宝の箱または宝を入れる籠を意味し、印は、価値の高いことを意味します。
宝篋印陀羅尼を納めた塔を、宝篋印塔と言います。
私、仏像って大好きなのですが、なかなかお写真撮らせていただけませんよね。
その点、屋外・野にある石像・摩崖仏・石仏・狛犬・宝篋印塔・宝塔・多宝塔・五輪塔・石碑などなど石の造作物は、写真撮影できますのでこれまた好きなんですよ~(^^)/
葛城修験「葛城修験二十八宿」は、役行者が法華経八巻二十八品を埋納したとされる経塚です。
経塚の形は、自然石、石祠、五輪塔などまちまちみたいですし、長い歳月の中で不明確になった経塚も多いそうですが。。
高野~熊野~吉野の総本山が連なる山岳宗教の最高峰、紀伊半島中に在る由緒ある修験の道。まだあまり一般に知られてはいないと思いますが、和歌山市の友ヶ島(加太の沖合の島です。近年、天空の城ラピュタのイメージで人気になりました)を一番経塚として出発して、和泉山脈に沿って二十八ヶ所の経塚を全国の修験者の皆様が訪ね巡っています。
「日本遺産登録」、おめでとー!😆⤴️
宝来山神社 茅の輪くぐりの季節に思う ― 2020年06月20日
朝の神社は実に清々しく、気持ちの良い空間と時間を提供して下さり大好きですね。
和歌山県伊都郡かつらぎ町に鎮座されます、宝来山神社に参拝して参りました。
神社の南側に紀の川の清流が流れ、西側は万葉集に15首も詠まれている妹山、背山を望む風光明媚な高台にあります。
創建は宝亀4年(773年)和気清麻呂が八幡宮を勧請し、八幡山と呼ばれたのが始まりとされています。本殿四社は一間社春日造で重要文化財に指定されているほか、中世に神社が鎮座する紀伊国桛田荘(かせだのしょう)は平安時代の末期頃までは京都の蓮華王院(三十三間堂)の管轄地でした。しかし寿永2年(1183)に後白河法皇が神護寺(京都)へ寄進。それ以来、京都神護寺の荘園領地となり、その頃の景観を描いたとされる二枚の絵図(宝来山神社蔵と京都の神護寺蔵)も重要文化財で、中学、高校の教科書に取り上げられています。(絵図は和歌山県立博物館に寄託、拝殿にレプリカを掲げています。)荘園の範囲は紀ノ川と穴伏川に挟まれた一帯です。
神社に隣接して、神宮寺である神願寺があります。鎌倉時代には荒廃したのですが、そこに神護寺の復興に尽力した文覚上人が、熊野からの帰りにこの地を訪れ、再興したそうです。
↑ 真言宗 弘法大師様の像も建てられています
神社の御祭神は、八幡大神・菅原大神・大山祗大神・猿田彦大神の四柱に素盞鳴大神・大国主大神・蛭子大神・少彦名大神・ 稲荷大神・市杵島姫大神を祀ります。
12月31日の年越の祓と対になる神事です。この2つの神事をあわせて「大祓(おおはらえ)」と呼ぶそうで、大祓の初見は、『古事記』仲哀天皇の段にあります。どちらも災厄を祓い清める儀式です。
↑ 宝来山神社も6月30日に行われます。今年はとにかくコロナウイルス退散です!
古来日本では、夏を迎えるこの時期、疫病が流行ることが多かったため、厄払いと無病息災のため、茅の輪くぐりが執り行われるようになったと考えられています。
茅の輪くぐりのくぐり方は、神拝詞(となえことば)を唱えながら、8の字に3度くぐり抜けるのが一般的です。
神拝詞は声に出さずに唱えますが、代表的なものは以下のようなものです。(地域や各神社で異なる)
「祓い給へ 清め給へ 守り給へ 幸え給へ」
(はらへたまへ きよめたまへ まもりたまへ さきはえたまへ)
茅の輪の茅を引き抜いてはいけないという作法があります。
昔は、この茅を持ち帰ることがお守りになるという迷信がありましたが、現在では茅の輪の茅はたくさんの人の厄を持っているもので、それを持って帰ることは災厄を持って帰ることと考えられています。
宝来山神社では茅の輪の準備はまだでしたが ↑ こちらは丹生都比売神社の様子です
民間信仰・神話では、茅の輪は素戔嗚尊(または牛頭天王)から授かった小さなお守りでした。
牛頭天王は京都・八坂神社の祭神であり、祇園祭の行われる7月には「蘇民将来子孫也」と記した「厄除粽(ちまき)」が、夏越祭では小さな茅の輪のお守り「茅之輪守」が授与されます。
八坂神社でも6月30日に境内に大茅の輪が設置されます。
京都祇園祭は869年、疫病流行を受けた御霊会を起源に始まりましたが、今年は山鉾巡行を取りやめる決定がすでになされています。取りやめは、阪急電鉄の地下工事により中止された1962年以来58年ぶり。感染症との関わりについては、コレラが流行した明治時代に秋に延期したり、5月に実施したりしたこともあったそうですが、本当に残念ではあります。
仲哀天皇 真の陵墓はどこにある!? ― 2020年06月23日
新型コロナウイルスが猛威を振るい、他府県への移動自粛が続くある日の昼下がり、出かけられないならお家でビデオでも鑑賞すべく、近所のレンタルビデオ店に出かけた私は、お店の前を通る国道170号線道路(通称:外環)の向かいに古い石碑を発見致しました。以前のブログに書きましたように私、古そうな石碑とか見ると思わず近づいてしまいまして・・・そして石碑の刻まれた文字を見て驚愕したのでのであります。刻まれている文字は「仲哀天皇御陵」!
早速自宅に帰って、ネットで「仲哀天皇陵 河内長野」で検索しますと。。。記事が出てまいりました。
どうやら、一時期この地が仲哀天皇陵として比定され、御陵があり、それを祀る神社も存在していたらしいのです。
↑ 『河内鑑名所記』延宝7年(1679)とその説明です
上原仲哀天皇御廟
社、拝殿、石段、石の鳥居有り、社僧有り、観音堂は普門寺と号す、正観音御長三尺運慶の作
と記し、絵図には、左上に「御廟のはか山」、下に鳥居と「八まん宮」、その右に「本社」、「はいてん」のほか、階段と階下の大鳥居、参拝者、下方には「うへばら村」の絵。
↑ 『西国三十三所名所図会』嘉永6年(1853)全体絵図とその説明です。
上原八幡宮は、上原村の西の丘山にある。街道の西に見える神社。上原村・宗作村・野村の3ケ村の産土神。仲哀天皇宮は、八幡宮の左後ろ上方にあって、石階の下に拝殿がある。
仲哀天皇はあの日本武尊(ヤマトタケル)の御子息であり、あの神功皇后の夫であり、あの応神天皇のパパであるという家系で英雄、ヒーロー、ヒロインにつながります、「古事記」「日本書紀」に記される第14代天皇でございます。ご本人はと言いますと、父上、奥様、ご子息の有名さに比較してやや残念な実績で、九州熊襲討伐のため皇后とともに筑紫に赴いたおり、神懸りした皇后から「熊襲の痩せた国を攻めても意味はない、神に田と船を捧げて海を渡れば金銀財宝のある新羅を戦わずして得るだろう」という託宣を受けたのですが、その託宣を無視して、構わず熊襲を攻め続けます。結果空しく敗れ去り、翌年2月に急死したため、神の怒りに触れたんだーと見なさる始末。その後、神功皇后は三韓征伐という偉業をなすわ、お子(応神天皇)を出産されるわと大活躍されております。
そんな仲哀天皇ではありますが、いったいその御陵はどこにあるのか?
「日本書紀」によると、「神功皇后摂政二年冬11月、天皇を河内国長野陵に葬った」とあり、現在ではその比定地は藤井寺市岡の前方後円墳とされていますが、江戸時代の歴史学者、松下見林はその著書「前王廟陵記」で仲哀陵の所在地を河内長野上原村と比定します!徳川綱吉の時代に、歴代天皇陵墓探索があり、幕府がここを仲哀天皇陵として認定します。それ以降竹垣が巡らされて、隣に西山神社が出来ます。
しかしながら「古事記」には「御陵は河内の恵賀の長江にあり」とあるので、大阪府藤井寺市藤井寺4丁目にある現在の岡ミサンザイ古墳(前方後円墳、全長242m)が仲哀天皇陵となりました。
↑ 宮内庁管理「仲哀天皇陵」岡ミサンザイ古墳
河内長野上原村の方は1735年刊行の「河内誌」によれば、用明天皇の孫である高向王の墓としています。幕末に行われた「文久の修陵」でも、江戸幕府が岡ミサンザイ古墳を仲哀天皇陵と修陵します。河内長野の方は古墳の形が前方後円墳でないということや、周壕がないなどの理由で否定されたそうです。。。
しかーし現在、岡ミサンザイ古墳は子供の応神天皇陵より新しい古墳と推定されています。これは明らかにおかしいではありませんか!すなわち岡ミサンザイ古墳は仲哀天皇陵とは限りません。というか違うでしょうが~!
これは比定のやり直しが必要であろう。そう考えた私はさっそく、河内長野市上原地区発掘大調査団を結成すべく、考古学有志の友人に声をかけたのですが、「コロナが収まってきて、スーパーの仕事が忙しい」とか「最近体調がすぐれず、あいにくその日も腹痛になるであろうことが予想されるので」とか「お前の家の近所に天皇陵?わはは~」など、それぞれの理由により、今回は大調査団の結成は見送られまして、団長=団員(私のこと)1名で上原地区のかつての比定地に調査に向かいました😁
↑ 人家の横から、背後の大変狭い山道を登っていきます。黒・白の猫😾ににらまれました。神々の遣いかも知れません。。
土器や埴輪など遺物が露出していないか、注意して歩きますが、発見できたのは近年のものと思われる・・・ビール缶、ペットボトル等でした('ω')
多分、この上が赤峰市民スポーツ広場になっており、そのあたりから風に吹かれて飛んできたりするのかもしれません。。
↑ 竹藪が繁っていて平地はあまりない。 古代の池と思われる池も発見!
残念ながら、絵図に描かれている仲哀天応を御祭神とした神社の痕跡すら残っておりません。
資料文献によれば、当時の古墳の扱いはかなり乱暴で、古墳であるかそうでないかということではなく、重要なのは陵墓、つまり皇族の葬地であるかどうかが全てで、陵墓に比定されなければ、その伝承もろとも消え去ってしまう場合が多いのです。土地は民間に売却され、神社の建物は全て処分され、墳丘は畑となり、送電鉄塔が建てられていました。
↑ この辺りが怪しい。発掘調査を行いたかったが、民間所有地につき調査員は、遠望するにとどめたのでございます('ω')
そこには天皇陵の比定と同時に多くの神社について、明治の宗教政策がもたらした喪失と断絶の歴史があったことを知ることもできました。
(このあたりまた別のブログとしていつか書きたいです)
参考文献
秋里籬嶋『河内名所図会』 柳原書店 1975年
暁鐘成『西国三十三所名所図会』 臨川書店 1991年
尾谷雅比古『近代古墳保存行政の研究』 思文閣出版 2014年 ← こちらは素晴らしい書籍ですが定価7,200円と手が出ません。河内長野市立図書館にて借りました。
山田五平『神功皇后伝説と大阪・奥河内の物語』 一粒書房 2015年
外地昇『検証 天皇陵』 山川出版社2016年
こちらは私の家のご近所に鎮座されます「住吉神社」です。
小さな神社ですがご由緒を読みますと
「当神社は小山田の東南尾上山の丘陵に鎮座し神功皇后三韓征伐の時深く三神に祈願ありて凱旋の後天下を巡行せられし時 和泉の国逆瀬川の上に騰跎船と云う処に御着き遊ばされそれより河内の国に行幸せられし時弓を射てこの矢の落ちたる処を着御の地と御定めになりその時その国境いに名主與三五郎と云う者御迎へに出で御先導申し上げ当神社の南方高天原に御着き遊ばされ給へり
それより攝政五十二年此の地に斎宮を建立せられ給う 三月壬朔皇后吉日を選びて斎宮に入り自ら神主となりて御祭祀され給う最も多くの歴史をもつ尊い宮なり・・・・(以下略)」とあり神功皇后とのゆかりが書かれているではありませんか。
随分な古社ということになります。
↑ 参道の途中にある高天原神社 由緒書きにある
「騰跎船と云う処に御着き遊ばされそれより河内の国に行幸せられし時弓を射てこの矢の落ちたる処」がココ。 騰跎船という場所がどこなのか、何と読むのかも分からない。。。
なんか空海が密教法具の三鈷杵を、「密教を広めるのにふさわしい地に導きますように」との願いを込めて力一杯投げたら、三鈷杵は流星のごとく飛んで行って、高野山「三鈷の松」にかかっているのを発見しましたってお話と似ている気が。。。。(^^)/
↓ 位置関係です。
すぐ近くに夫である仲哀天応陵があるとしたら、全ては繋がるのではないでしょうか?
日本遺産 「女人高野」 天野山金剛寺 ― 2020年06月25日
文化庁より日本遺産の新規登録発表がありました。
文化庁によりますと、2月13日を「日本遺産の日」(語呂合わせか・・・)として令和2年までに100件程度認定し、それをもって当面の募集終了とするとのことでしたので、今回が最後の認定となりました。
結果につきましては文化庁ホームページ 令和2年度「日本遺産(Japan Heritage)」の認定結果の発表について(6月19日)に掲載されています。
それによれば、69件の申請に対して21件の登録結果となっています。
その中で、「女性とともに今に息づく女人高野~時を超え、時に合わせて見守り続ける癒しの聖地~」いわゆるシリアル型で、大阪府(◎河内長野市)、奈良県(宇陀市)、和歌山県(九度山町・高野町 ◎は申請代表者)が登録されています。
日本遺産の登録にあたっては、地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリーを文化庁が認定するもので、ストーリーを語る上で欠かせない魅力溢れる有形や無形の様々な文化財群を地域が主体となって総合的に整備・活用し、国内だけでなく海外へも戦略的に発信していくことで、地域の活性化を図ることを目的としています。
今回の「女人高野」の登録では、文化庁は「ジェンダーに関わる日本遺産として重要」と評価したそうです。
このストーリー(物語)を重視している点が特徴で、この制度、私的になかなかエエなあと思っているのでございます。でもこう言っては何ですが、「世界遺産」に比べてあまり騒がれないというか、何それ~?みたいな認知度なのではないでしょうか。。。
「女人高野」ストーリーの概要はこんな感じでした。
「高野山は、近代まで「女人結界」が定められ、境内での女性たちの参拝は叶わなかった。そんな時代にあっても女性たちの、身内の冥福を祈る声、明日の安らぎを願う声を聴いていた、「女人高野」と呼ばれるお寺があった。
優美な曲線を描くお堂の屋根、静かに願いを聴いている柔和なお顔の仏像、四季の移ろいを映す周囲の樹々、これらが調和した空間を『名所図会(めいしょずえ)』は見事に実写し、表現した。そこに描かれた「女人高野」は時を超え、時に合わせて女性とともに今に息づき、訪れる女性たちを癒し続けている。」
いかかですか?ちょっとストーリーに沿って旅してみたくないですか?
「女人高野」を構成するのは、河内長野市の金剛寺、奈良県宇陀市の室生寺、和歌山県九度山町の慈尊院、同県高野町の不動坂口女人堂を中心に、関連した彫刻や街道など計25件の文化財です。
↓ で、こちらが私の地元、河内長野市の天野山金剛寺です。境内を流れるのは天野川
そのご縁をもって、金剛寺は、八条女院の祈願所となりました。
再興当時から弘法大師様をお祀りしてさらに女性が弘法大師様にお参りができたこと(当寺は女人禁制のお寺が多かった)、また、八条女院の侍女が阿観上人の弟子となり、二代続けて院主(いんじゅ=住職)となったことから、「女人高野」と呼ばれるようになりました。
現在は、明治時代の廃仏毀釈のためもあり減少して摩尼院、観蔵院、吉祥院を残すのみとなりましたが、それでも、主要伽藍などが戦火に掛からなかったので、貴重な文化財が数多く残されています。(5件の国宝と29件の重要文化財)
↑ 楼門と増長天、持国天の二天王立像。(重要文化財)
寺院の門に二天王立像を置く例は、記録では奈良時代以来多く知られますが、その現存例はあまりなく、この二天王立像は門を守護するために造られた二天王立像としては唯一の確証のある例だそうです。おお~、そうなんだ!寺門に置かれる一番多いのは、何といっても上半身裸形で、筋骨隆々の仁王(金剛力士)様ですものね。
天野山金剛寺は実は昨年、「中世に出逢えるまち河内長野」としても日本遺産に登録済みではあります。
↑ 宮内庁管理、北朝の光厳天皇の墓所(分骨所)も境内にあります。
金堂の堂内には中央に本尊の金剛界大日如来坐像、向かって右に不動明王坐像、左に降三世明王坐像を安置されてまして(いずれも2017年度に国宝に指定)。これは密教の曼荼羅の一つである尊勝曼荼羅を立体的に現したものだそうで、この金剛寺にしか存在しない見事なものです。 ↓ 金堂
↑ 観月亭 (御影堂付属) ここからお月見🌝してみたい。
↑ 多宝塔は、 平安時代末の建立で多宝塔としては日本最古!ではありますが、慶長11年(1606年)から12年(1607年)にかけて大改修。さらに平成平成21年より平成30年まで9年間に及ぶ平成の大修理が行われています。
↑ 2013年の秋に修理作業現場に入れていただきました。その時の様子です。
間近で見る上重、四手先組物の複雑さに驚嘆致します!
修理の期間、金堂のご仏像も京都国立博物館や、奈良国立博物館に仮住まいされて、そちらにも拝観に行きました。というか知らずに京都国立博物館に行って、最初は気づきませんでした。同行した私の尊敬するソウルメイトが、あのお方(金剛界大日如来坐像)はもしや!?と指摘されてから、近寄って確認させていただいた次第です~💦
ああ、あの頃も懐かしい。。。戻られた今はちょっと秘仏扱いで、普段は格子越しにしか拝観できません。。
お庭は美しい苔に覆われた枯山水庭園ですが、「草行山水自然形の庭園」(う~む、よくわからん)で室町時代に作庭され、その後桃山時代に阿波国徳島藩主・蜂須賀家政が改修、そして江戸時代に雪舟流の家元・谷千柳が現在の姿に改修したとの説明書きがありました。
↑ 白洲正子さんの随筆「かくれ里」の表紙にもなっている、日月山水屏風(こちらは2018年に国宝指定)も天野山金剛寺所蔵ですが、こちらも常時公開はされていません。
昔5月5日に訪問した折、たまたま公開日でラッキーだった思い出があります(^^♪
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