新・隠れ里紀行 天見~流谷2020年07月17日

白洲正子さんの名著「かくれ里」のパクリです。

私の住んでいる河内長野市はなかなか緑も多く、文化財も多く残っていていい所です。

今回は、河内長野市南部に位置します「天見」(南海高野線天見駅があります)方面行ってきました。和歌山県(橋本市)との境界に位置します。

山深い森の中であるにもかかわらず「天が見える」ところから「天見」という地名になったという説があります。 ↓ 隠れ里にふさわしい風景です(^^)/


国道371号線を河内長野から南下、「出合ノ辻」といういかにも曰くありげな交差点がありますが、そこは南北朝時代の古戦場で、1333(正慶2)の正月に、楠木正成が率いた南朝軍と北朝軍(紀州の御家人)とが、この辻で出くわして「安満見合戦」と呼ばれる壮絶な合戦が行われた場所なのだそうです。

河内長野方面からですとここを右折しますと、「流谷」という集落方向に向かいます。

左折しますと南海天見駅方向です。

流谷「ながれだに」・・これはなかなかに渋い名前ですよね~。くーったまらん!

 

 ↓ 八幡神社、通称「流谷八幡神社」(ながれたにはちまんじんじゃ)

この地にはかつて甲斐荘という京都の石清水八幡宮の荘園があったそうです。それで1039年(長暦3年)16日に石清水八幡宮より八幡神を勧請し、社殿を造営したことが神社創建の起源とされています。

境内にあるイチョウは樹齢400年とされ、大阪府から天然記念物に指定されています。秋にも来てみたいものです。

 ↓ 大イチョウ 今は紫陽花もきれいでした。

 ↑ 縄掛神事も行われています。1039年(長暦3年)石清水八幡宮より勧請された際の御柱渡御古例祭で長さ60mの注連縄を作り、勧請杉と柿の古木との間に掛けます。流谷と天見を分ける結界の意味があり疫病や忌穢れがお互い入り込まないようにします。また注連縄が長く保てば保つほど豊作になると伝わり、注連縄から12本(閏年は13本)の榊束を垂らします。毎年16日または前後の休日に執り行われています。


拝殿内に鉄製湯釜が展示されていました。毎年7月に行われる探湯祭の際に行われる湯立て神事にて利用されていたそうで、湯釜の銘文によると賢覚という僧侶が住民に寄付を募り、流谷八幡宮のため作られたことが記されていて、1340年(延元5年)作とされている製作時期が記された湯釜の中では、全国的にも特に古い年代のものだそうです。

 

今回、一番の目的は日本遺産に登録された「「葛城修験」~里人(さとびと)とともに守り伝える修験道はじまりの地~」における経塚の訪問です。葛城二十八宿は、役小角が法華経八巻二十八品を埋納したとされる経塚です。流谷には第16番経塚があります。

 ↑ え、こっちですか? みたいな所を歩きます。

 ↑ え、ここも登るんですか? みたいな所も登ります。さすが役行者さま。。。

 ↑ 【第十六番経塚】流谷の里 妙法蓮華経 如来寿量品でございます。

お近くにはもう一ヵ所、【第十七番経塚】天見不動 妙法蓮華経 分別功徳品もあるのですが、さらに登山が必要で今回はパスします💦


天見の歴史として、もう一つ興味深いのが隠れキリシタンに関することです。

河内長野は戦国時代、烏帽子形城城主の甲斐庄正治(かいしょうまさはる)がキリスト教の信者で、烏帽子形山の付近には300名ものキリシタン領民が住んでいたというキリシタンの町だったことがあります。1582年にイエズス会の宣教師がローマへ送った報告書に記されているそうです。その後、豊臣秀吉によるバテレン追放令により、キリシタン達は天見の山里に隠れ住んだそうです。当時、そこでも200名ほどの隠れキリシタンがいたそうで、天見の里は隠れキリシタンの里でした。


 ↓ この細い道を上に上がると薬師堂跡が。

流谷奥の薬師堂跡に破壊された十三仏碑があり、この石碑には「1653年(承応二年)十月十五日」の銘と共に「十三体の仏像」が浮彫にされています。さらに20名の信者名が彫られていますが、その中に「テウロ」や「シタニ」、「道金(ヨハキン)禅門」などキリシタンの洗礼名のような片仮名の名が見られるそうです。(残念ながら私には判別できませんでした)

 ↓ この石碑は隠れキリシタンのものではないかと推察されています。

この流谷エリア、飛鳥時代から続日本紀などに伝説的に語られる役行者の経塚と、戦国時代の隠れキリシタンの石碑が共存して残る、まさに長い歴史の中での隠れ里と言えるのではないでしょうか。

流谷から戻りまして「出合ノ辻」を反対方向に行きますと南海天見駅(無人)、ここで行き止まりと見えますが、実は道を下ると温泉旅館「南天苑」に続きます。

「南天苑」は明治・大正を代表する建築家・辰野金吾(代表作は東京駅)が手がけた建物です。

数寄屋造りの本館建物と、四季ごとに装いを変える日本庭園が素晴らしいです。
女将の山崎さんがインスタグラムで、その様子をこまめに発信していて素敵です♪

 ↓ 以前に訪問した時はなかったのですが、専用露天ぶろ付きの別館もオープンされていました。

客室も素敵です。

こちらの旅館も私にとって、大切な思い出のある場所の一つでございます。

日本遺産 「女人高野」 天野山金剛寺2020年06月25日

文化庁より日本遺産の新規登録発表がありました。

文化庁によりますと、213日を「日本遺産の日」(語呂合わせか・・・)として令和2年までに100件程度認定し、それをもって当面の募集終了とするとのことでしたので、今回が最後の認定となりました。

結果につきましては文化庁ホームページ 令和2年度「日本遺産(Japan Heritage)」の認定結果の発表について(619日)に掲載されています。 

文化庁ホームページ

それによれば、69件の申請に対して21件の登録結果となっています。


その中で、「女性とともに今に息づく女人高野~時を超え、時に合わせて見守り続ける癒しの聖地~」いわゆるシリアル型で、大阪府(◎河内長野市)、奈良県(宇陀市)、和歌山県(九度山町・高野町 ◎は申請代表者)が登録されています。

 

日本遺産の登録にあたっては、地域の歴史的魅力や特色を通じて我が国の文化・伝統を語るストーリーを文化庁が認定するもので、ストーリーを語る上で欠かせない魅力溢れる有形や無形の様々な文化財群を地域が主体となって総合的に整備・活用し、国内だけでなく海外へも戦略的に発信していくことで、地域の活性化を図ることを目的としています。

今回の「女人高野」の登録では、文化庁は「ジェンダーに関わる日本遺産として重要」と評価したそうです。

このストーリー(物語)を重視している点が特徴で、この制度、私的になかなかエエなあと思っているのでございます。でもこう言っては何ですが、「世界遺産」に比べてあまり騒がれないというか、何それ~?みたいな認知度なのではないでしょうか。。。

 

「女人高野」ストーリーの概要はこんな感じでした。

「高野山は、近代まで「女人結界」が定められ、境内での女性たちの参拝は叶わなかった。そんな時代にあっても女性たちの、身内の冥福を祈る声、明日の安らぎを願う声を聴いていた、「女人高野」と呼ばれるお寺があった。

優美な曲線を描くお堂の屋根、静かに願いを聴いている柔和なお顔の仏像、四季の移ろいを映す周囲の樹々、これらが調和した空間を『名所図会(めいしょずえ)』は見事に実写し、表現した。そこに描かれた「女人高野」は時を超え、時に合わせて女性とともに今に息づき、訪れる女性たちを癒し続けている。」

いかかですか?ちょっとストーリーに沿って旅してみたくないですか?


「女人高野」を構成するのは、河内長野市の金剛寺、奈良県宇陀市の室生寺、和歌山県九度山町の慈尊院、同県高野町の不動坂口女人堂を中心に、関連した彫刻や街道など計25件の文化財です。

 ↓ で、こちらが私の地元、河内長野市の天野山金剛寺です。境内を流れるのは天野川

奈良時代の天平年間に聖武天皇の勅願によって行基が開いたとされる古刹です。弘法大師(空海)もこちらで修行をされたと伝わります。 鎌倉時代末期には100近い塔頭があったそうですが、その後400年のあいだに荒廃してしまいます。しかし、平安時代の終わりに高野山より阿観上人が、この地に住まわれ、後白河上皇とその妹の八条女院の篤い帰依と庇護を受けました。そして阿観上人は、高野山より真如親王筆の弘法大師像を拝受し御影堂を建立し、弘法大師御影供の法要を始められると共に、金堂、多宝塔、楼門、食堂などの伽藍を再興していきます。

そのご縁をもって、金剛寺は、八条女院の祈願所となりました。

再興当時から弘法大師様をお祀りしてさらに女性が弘法大師様にお参りができたこと(当寺は女人禁制のお寺が多かった)、また、八条女院の侍女が阿観上人の弟子となり、二代続けて院主(いんじゅ=住職)となったことから、「女人高野」と呼ばれるようになりました。

現在は、明治時代の廃仏毀釈のためもあり減少して摩尼院、観蔵院、吉祥院を残すのみとなりましたが、それでも、主要伽藍などが戦火に掛からなかったので、貴重な文化財が数多く残されています。(5件の国宝と29件の重要文化財)

 ↑ 楼門と増長天、持国天の二天王立像。(重要文化財)

寺院の門に二天王立像を置く例は、記録では奈良時代以来多く知られますが、その現存例はあまりなく、この二天王立像は門を守護するために造られた二天王立像としては唯一の確証のある例だそうです。おお~、そうなんだ!寺門に置かれる一番多いのは、何といっても上半身裸形で、筋骨隆々の仁王(金剛力士)様ですものね。


天野山金剛寺は実は昨年、「中世に出逢えるまち河内長野」としても日本遺産に登録済みではあります。

南朝・北朝の両行在所があったことでも有名です。

 ↑ 宮内庁管理、北朝の光厳天皇の墓所(分骨所)も境内にあります。


金堂の堂内には中央に本尊の金剛界大日如来坐像、向かって右に不動明王坐像、左に降三世明王坐像を安置されてまして(いずれも2017年度に国宝に指定)。これは密教の曼荼羅の一つである尊勝曼荼羅を立体的に現したものだそうで、この金剛寺にしか存在しない見事なものです。 ↓ 金堂

 ↓ 金堂から楼門方向 境内


 ↑ 観月亭 (御影堂付属) ここからお月見🌝してみたい。


↑ 多宝塔は、 平安時代末の建立で多宝塔としては日本最古!ではありますが、慶長11年(1606年)から12年(1607年)にかけて大改修。さらに平成平成21年より平成30年まで9年間に及ぶ平成の大修理が行われています。

 ↑ 2013年の秋に修理作業現場に入れていただきました。その時の様子です。

間近で見る上重、四手先組物の複雑さに驚嘆致します!


修理の期間、金堂のご仏像も京都国立博物館や、奈良国立博物館に仮住まいされて、そちらにも拝観に行きました。というか知らずに京都国立博物館に行って、最初は気づきませんでした。同行した私の尊敬するソウルメイトが、あのお方(金剛界大日如来坐像)はもしや!?と指摘されてから、近寄って確認させていただいた次第です~💦

ああ、あの頃も懐かしい。。。戻られた今はちょっと秘仏扱いで、普段は格子越しにしか拝観できません。。


お庭は美しい苔に覆われた枯山水庭園ですが、「草行山水自然形の庭園」(う~む、よくわからん)で室町時代に作庭され、その後桃山時代に阿波国徳島藩主・蜂須賀家政が改修、そして江戸時代に雪舟流の家元・谷千柳が現在の姿に改修したとの説明書きがありました。


 ↑ 白洲正子さんの随筆「かくれ里」の表紙にもなっている、日月山水屏風(こちらは2018年に国宝指定)も天野山金剛寺所蔵ですが、こちらも常時公開はされていません。

昔5月5日に訪問した折、たまたま公開日でラッキーだった思い出があります(^^♪

役行者ゆかりの地が日本遺産に2020年06月19日

もうずいぶん前のことですが、奈良県大峯山の登山口、洞川温泉を旅した時から役行者という人物に興味を持ちまして、最近になってまたゆかりの地など訪ねていました。

本日2020619日付で文化庁から日本遺産の発表があって、その中に和歌山市から奈良県に連なる和泉山脈の『「葛城修験」 里人とともに守り伝える修験道はじまりの地』が含まれていました!おおー!


ストーリーの概要 ↓ (報道発表より)

和歌山~大阪~奈良の境に聳える葛城の峰々。修験道の開祖と言われる役行者がはじめて修行を積んだこの地は、世界遺産の吉野・大峯と並ぶ「修験の二大聖地」と称されています。この地には、役行者が法華経を1品ずつ埋納したという28の経塚があり、今も修験者たちは、その経塚や縁の寺社、滝や巨石を巡ります。そしてその修行にはいつの時代も、この地に暮らす人々との深いつながりがありました。

修験者や地域の人々が大切にしてきた聖地「葛城修験」――修験道の歴史は、ここから始まりました。 


その登録資産となった、和歌山県橋本市の「小峯寺(おみねじ)」に先日行ってきたばかりでした~

(前回ブログ 不動山の巨石 訪問日と同じ日)

 

「寶雲山(ほううんざん)小峯寺」は、延宝6年(1678)に鋳造された梵鐘の銘文に「小峯山は奈良時代、役行者が滞在し、修練したところで、小峯寺はこのときに始まる」、また「山は五色の霧が立ちこめることから、山号を寶雲山、小峯寺の名は修験道の霊場・大和国大峯山に対比していう」という意味の文が記されています。

大峯山に対して小峯。ほ~、ふむふむ。そうだったんだ。

3月の初めには、昔ながらの修験者の儀式が行われていて、大護摩祈祷が山伏とともに営まれ、その護摩を焚いた灰の上を、素足で火渡りも行うそうです。

二實修験道、葛城根本道場としての役目のあるお寺です。これは一度見学せねば!


 ↑小峯寺宝篋印塔(市指定文化財・地上高 180Cm)

南北朝時代後期の天授五年(南朝年号 1379年)の紀年銘を有する貴重な宝篋印塔です。全体的に見てバランスが良く美しいではないですか~。

相輪は下から、やや背の高い伏鉢・単弁請花・九輪・単弁請花・宝珠で完存しています。


紀の川流域では他に、かつらぎ町下天野にある、あの西行法師、妻・娘 宝篋印塔(南北朝時代後期、県指定文化財)がなかなか素晴らしいですね。

 

宝篋印塔墓塔とは、供養塔などに使われる仏塔の一種で、五輪塔とともに、石造の遺品が多いようです。

宝篋とは、宝の箱または宝を入れる籠を意味し、印は、価値の高いことを意味します。

宝篋印陀羅尼を納めた塔を、宝篋印塔と言います。

私、仏像って大好きなのですが、なかなかお写真撮らせていただけませんよね。

その点、屋外・野にある石像・摩崖仏・石仏・狛犬・宝篋印塔・宝塔・多宝塔・五輪塔・石碑などなど石の造作物は、写真撮影できますのでこれまた好きなんですよ~(^^)/


葛城修験「葛城修験二十八宿」は、役行者が法華経八巻二十八品を埋納したとされる経塚です。

経塚の形は、自然石、石祠、五輪塔などまちまちみたいですし、長い歳月の中で不明確になった経塚も多いそうですが。。

高野~熊野~吉野の総本山が連なる山岳宗教の最高峰、紀伊半島中に在る由緒ある修験の道。まだあまり一般に知られてはいないと思いますが、和歌山市の友ヶ島(加太の沖合の島です。近年、天空の城ラピュタのイメージで人気になりました)を一番経塚として出発して、和泉山脈に沿って二十八ヶ所の経塚を全国の修験者の皆様が訪ね巡っています。

「日本遺産登録」、おめでとー!😆⤴️

不動山の巨石2020年06月17日

我が国は憲法で信教の自由を掲げる、素晴らしい国家です。したがって多くの宗教があり、それを信じる人や信じない人、なんでも信じる人、使い分ける人、なんだかよくわかんなーいという人など様々です。
原始的な信仰としてはアニミズムといわれる、自然の中の現象や、山、滝、巨木、巨石などに精霊(あるいは神)が宿る、おわすという考え方。いいと思います。私自身、そういった場所に行ったとき、その考え方、あるいは感じ方、正しいなーって思えることが多々あります。

今回は「不動山の巨石」(和歌山県橋本市)に行ってまいりました。
はい、私けっこう巨石って好きなんですよ(^^)/
山の上です。そんな場所ってたいてい修験道・役行者のゆかりの地、山岳信仰の行場である場合が多いのですが・・・やっぱり今回もそうでした。


西国三十三所のお寺の一つ槇尾山施福寺も山上の寺院で、やはり役行者が、自ら書写した法華経の巻々を葛城山の各所の秘密の場所に埋納し、最後に埋めたのがこの山であったことから巻尾山(槇尾山)の名が付いたとする、地名起源伝承があります。西国巡礼随一の難所と言われており、階段数951段!昔、父親と登ったのを最初にその後、4回ほど参拝いたしました。

そして今回、私の前に立ちはだかる階段は635段!槇尾山施福寺よりは楽さ~♪・・・と思ったのですが、その階段って山上まで、ほぼ真っすぐなんですー!(施福寺の場合は、右に左に斜めに登山していきます)
 ↑ 先が全く見えずに続く・・・
まわり道というのもあり、本来はそちらで登山していたのでしょう。しかし地元村民が、えーい、まだるっこしいわいしょ~。一直線やしてよー。(リアル和歌山弁)と道を通したもの思われます。
ひたすら登ります。途中、ところどころ野草が咲いていて美しい・・・なんて実は、あんまりゆとりないんですが(;^_^A ハアハア・・・
 ↓ 振り返りつつひたすら階段を上ります。
 ↓ 登りきると、山小屋休憩所に区長様からウエルカムメッセージが
 ↓ 休憩所の前の石です。おおっ!楠木正成公もココにいらっしゃったのか!
では、私も同様に腰掛けさせていただきます!(^^)! よっこらしょっと。
 ↓ これが山上の巨石群だ!
環境省選定の「日本の音風景100選」に選ばれております。特に真ん中の大穴に耳を当てて聞くのだそう。
その音が何に聞こえるかは、本人次第だそうですが私の場合は、そうですね・・・ゴーゴーって聞こえてくるそれは何だったのでしょうか?(紀の川の流れの音でしょうか・・・)
和歌山県で「日本の音風景100選」はあと一つ、有名な那智の滝が選定されてるだけなので、なかなか貴重でしょ(^^)/
これが例えば京都などでは、京の竹林(京都市)・るり渓(京都府南丹市)・琴引浜の鳴き砂(京都府京丹後市)というあたりですね。
環境省ホームページ https://www.env.go.jp/air/life/nihon_no_oto/

現在は、永禄年間に信仰を集めたという不動尊が祀られていますが、古代の人々は山腹に突如現れた巨石を、パワースポットとして信仰したのですね。。
これらの巨石は、その昔、役行者に命じられて神である一言主命が、葛城山から金峯山に橋を架けようとしたのですが、人目を避けて昼間しか作業しなかったので、結局石を集めただけに終わって、役行者に怒られた~というとんでもない伝説が残っているあの場所です!
今回は、その伝説を検証するためにやって参りました。伝説にまちがいございません😁
地質学者様によりますと、ここ不動山付近は、地質的には和泉層群で、かつて海底であった時代に堆積した礫岩などが多く見られます。巨石群は、長い時間をかけて表層の土壌が浸食され、礫岩が露わになったもので、この和泉層群は、五條市の大澤寺付近から領家変成岩である花崗岩に変化していくのだそうです。
 ↑ 巨石に我が身を横たえ、空を見上げました。。。。
 風と木々のざわめき、鳥の声、虫の声。。
 ↑ まわり道はこんな感じ。
出発場所には約1時間で戻ってきました。 ハアハアハア。。😅
さあ、巨石マニアの貴方、階段マニアの貴兄、役行者ファンの貴女、「日本の音風景100選」全制覇を企むアナタ(そんな人々いるかって!)も是非チャレンジしてくださいませ! 
ゴゴゴゴゴ・・・(ジョジョの奇妙な冒険風)

高野山と犬たちのお話2020年06月06日

私、ラブラドールレトリバーの黒犬を飼っていたことがあります。

名前はジョンと名付けました。

犬の名前としては、最も平凡と思わせて・・・私が好きなジャズプレイヤー John William Coltraneから名付けてます(^^)/ 色も黒ですしね~。

↑ 犬のジョン 在りし日の雄姿  ↑ ジャズプレイヤーのジョン 在りし日の雄姿

ええ、犬・猫は好きですね。猫を飼ったら、マイルスって名前つけるつもりです。(マイケルじゃないですよ。)はい、ジャズトランぺッター Miles Dewey Davis III からパクります。

でもどっちかといえば、私には犬の方がなついてくれる気がします。

 

高野山の麓、九度山町に世界遺産の登録資産にもなっている、古刹「慈尊院」(弥勒菩薩の別名)があります。


こちらのご本尊は弥勒菩薩様ですが、秘仏で何と21年に一度の御開帳です。(21年に一度桧皮屋葺替の際、ご本尊をお移しのために。弘法大師空海の命日が21日ということに因んでとの説もあり)

はい、前回の御開帳の際、拝観させていただきました~!(^^)!

この国宝仏ですが、専門家の眼に初めて触れたのは、昭和35(1960)のことだそうです。国宝に指定されるほどの見事な傑作仏像が、新たに発見されるなどということは、めったにある事ではないと思います。

明治17(1884)、国より調査依頼を受けたアーネスト・フェノロサと岡倉天心が、法隆寺夢殿厨子と救世観音菩薩像の公開を法隆寺に求め、長い交渉の末、公開されたという事件に匹敵するのではないでしょうか。(現在、救世観音菩薩は春・秋年2回御開帳)

昭和に入ってからの発見では、昭和12(1937)の興福寺(旧山田寺)仏頭の東金堂本尊台座下からの発見にも匹敵するかと。(こちらは仏頭のみ。現在は興福寺国宝館にて常時拝観可能です。)

話が仏像にいってしまいましたが、慈尊院は弘仁7(816)、弘法大師が高野山開創の時、高野山参詣の表玄関として伽藍を創建し、高野山一山の庶務を司る政所を置いて、高野山への宿所ならびに冬期避寒修行の場とされたのが始まりだそうです。また弘法大師の母君 (玉依御前 : たまよりごぜん)が香川県善通寺より、我が子空海の開いている山を一目見たいとの思いから、高齢にも関わらず慈尊院に参られ、ご本尊弥勒菩薩を篤く尊崇せられたそうですが、母君が亡くなられた際に弘法大師は、廟堂の建立と弥勒仏を自作して、母君の霊を安置されたと伝わります。

 

そんな慈尊院に昭和60年代に、紀州犬と柴犬の雑種が住み着きました。慈尊院から聞こえる鐘の音を好んでいたため、つけられた名前は「ゴン」(^^)/

↑ 【新装版】高野山の案内犬ゴン ハート出版


何とこのゴン、最初の頃は九度山駅と慈尊院の間を参拝者を案内するのですが、そのうちに高野山町石道の約20kmの道のりを朝、慈尊院を発って、夕方に高野山上の大門まで道案内し、(慈尊院からスタートして大門まで8時間ほどかかります!)夜には慈尊院に戻るという毎日を送るようになったのです!

 ↑ 町石道の起点です    右写真は丹生官省符神社から慈尊院方向を撮影
慈尊院から境内を抜けて階段を上がりますと、弘法大師によって創建された丹生官省符神社です。
 

1200年前、弘法大師空海が高野山を開くに際して、狩場明神とおっしゃる神様と出会ったとき、猟師の姿をして2匹の黒犬を連れていたそうな。

 ↓ こんな感じ

ゴンは2002655日は弥勒縁、弘法大師母君命日!)息を引き取りました。

「弘法大師の案内犬の再来・生まれ変わり」「お大師さんの犬」などと参詣者から親しまれ、愛されてきたゴンを惜しみ、慈尊院境内の弘法大師像の横に「高野山案内犬ゴンの碑」が建てられています。

 ↑ なかなかカワイイ


(後日談)2000年6月5日(初代の命日)からゴールデンレトリバーの雑種で2代目ゴンが飼われているそうです。ただ2代目は参拝客をどこにも案内はしないそうでございます(‘ω’)

※ 地元の方からすでに2代目もお亡くなりになったと聞きました。

3代目は今のところ居ないようです。。。

 

高野山中腹の神社、丹生都比売神社にもご神犬「すずひめ号」「大輝号」が居られます。

行事の際にのみご登場とのことで、私はまだお会いできておりません。。。


役行者 ゆかりの地2020年06月05日

古刹といわれる歴史ある寺院を訪問しますと、「役行者」開基という所が多くあります。

私の住む大阪府河内長野市の「観心寺」もそうですし、大阪府南河内郡河南町「弘川寺」、大阪府泉佐野市の「七宝瀧寺」、大阪府和泉市「松尾寺」、奈良県吉野町の「金峯山寺」、天川村の「大峯山寺」「龍泉寺」、御所市「転法輪寺」(金剛山上)などなどそれはもうきりがありません。

役行者とは?

7~8世紀に奈良を中心に活動しておられました、修験道の開祖とされている人物です。

 ↑ 泉佐野市 七宝瀧寺に祀られる尊像です。


「役行者」は「役小角(えんのおづの)」がその本名であると言われています。

「神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)」とも言われますが、これは光格天皇が、寛政十一年(1799)、役行者に贈った諡号(しごう)です。

多くの伝説が残されており、私は役行者を日本のファーストXMENと呼んでいます(^^)/

幼少のころ頭に角があったとも。

恐らく念能力で物質を動かすことができる系のミュータントですね。

物質証拠としては、鳥取県にある三徳山三佛寺投入堂です。役小角が法力で建物ごと平地から投げ入れたという伝承が残されています。https://www.tottori-guide.jp/tourism/tour/view/168

 

役行者は、鬼神を使役できるほどの法力を持っており、前鬼と後鬼を従えた姿が有名です。

前鬼・後鬼は、夫婦の鬼で前鬼が夫、後鬼が妻

↓ こちらは天川村洞川 龍泉寺の前鬼・後鬼の雄姿

写真右 夫の前鬼は赤鬼で鉄斧を手にし、役行者の前を進み道を切り開きます。

現在の奈良県吉野郡下北山村出身とされています。

写真左 妻の後鬼は、青鬼で、霊力のある水が入った水瓶を手にし、種を入れた笈を背負っていることが多いそうです。現在の奈良県吉野郡天川村出身とされています。

 ↑ 龍泉寺の境内、「龍の口」と呼ばれる泉から湧き出る清水は、修験者たちから「清めの水」とされて、大峰山の第一の水行場とされるなど、修験道の道場として有名です。

洞川から大峰山(山上ヶ岳)を登る修験者は、宗派を問わず、龍泉寺で水行の後、八大龍王尊に道中の安全を祈願するのが慣例となっています。


↑ 大峰本宮 天河大辨財天社

別名天河神社ともいい、日本三大弁財天の筆頭・大峯本宮とされる神社で、芸能の神様としても有名です。能関係資料多数が保存され、我が国能楽発達史上の貴重な資料とされています。

弘法大師 空海は、同神社への参籠や大峯の山中で修行によって神仏習合の密教を「あ字観」として完成したそうです。おおーっ!ここで。。。そうだったんだ。


この神社の本殿参道上に、ひものような細いもの(全長10cmぐらい)が、うねうねと動いています。蛇!? いやここは神社です。神の化身と遭遇でございます!

それにしても、神様、いくらなんでも少々、サイズが小さすぎるのでは。。。( ;∀;)

 

  ↑ こちらは、奈良県御所市にある役行者、生誕地 吉祥草寺


 ↑ 開山堂には、等身を超える木造の役行者倚像・前後鬼坐像を祀り、本堂が改築された江戸初期の作と考えられています。この役行者像は顎髭がなく、若き日の役行者の姿を写した珍しい像です。(撮影のご許可をいただきました)

木造役行者母公坐像も、他に遺品の少ない貴重な作例です。


(母想いなエピソード)

役行者は大峯山(山上ヶ岳)に向かい修行をしていました。

この修行を案じた役行者の母、渡都岐(とつき)白専女は、役行者の弟子・後鬼の案内で葛城山の麓、茅原から険しい峠や山河を越えて、役行者が山籠りして修行している大峯山に一番近い、洞川の蛇ケ谷まで会いに来ましたが、この谷を渡ろうとすると、一匹の大蛇が行く手を阻み、どうしても渡ることが出来ません。後鬼と替わるがわる何度試みても駄目でした。このことを知った孝行心の篤い役行者は、このままでは母は私を心配して命の危険な山中を何処までも心配して追っかけて来るだろう。蛇ケ谷に庵を建て母に住んでもらい、身の回りのことを後鬼に頼み、私自身が時々母を訪ねることにすれば、母も安心して留まってくれるだろうと、洞川の人たちに頼んで母の庵を建ててもらい、母公堂と庵の名を付けました。  ↓ 天川村洞川の母公堂

また役行者は母を思う心から、母が後を追わないようにと「女人入山禁止の結界門」を建てました。これが「女人禁制」の始まりであり、1300有余年後現在も守り続けられています。↓

※ 現在は山上ヶ岳の登山口にある女人結界門まで女性も進むことができます


(びっくり仰天なエピソード)

役行者様、ある時、葛木山と金峯山の間に石橋を架けようと思い立ち、諸国の神々を動員してこれを実現しようとします。。ところが、葛木山の神、「一言主」は、夜間しか働かなかったのです。役行者は「一言主」を、折檻して責め立てたそうな!(神様相手に無茶苦茶でんがな~)

すると、それに耐えかねた「一言主」は、天皇に役行者が謀叛を企んでまっせと訴えため、(一言主もあなた神様なんだから~って突っ込みたくなるところではあります・・・)役行者は彼の母親を人質に取られ、(母親想いの弱点を突かれたか!?)朝廷によって捕縛され、伊豆大島へと流刑になったとか。。。

 ↑ 葛木 一言主神社 乳だれの大イチョウが有名です。


役行者の生涯に関して、史料としては「続日本紀」に記述がありますが、伝承によるところが大きく、「日本霊異記」などに、当時流布していた話を元にして書かれているようです。荒唐無稽な話と思われるかもかもしれませんが。。。


ところで、行者(ぎょうじゃ)とは、○○の修行を行う者の意味で、特に断食や針山の上に坐禅をするなどの苦行の行者が有名です。

お釈迦様も悟りを開く前に、苦行をしていた事で知られています。

日本では、特に山岳修行を行う者を指すようになり、修験道(しゅげんどう)と呼ばれる宗教となりました。


ちょっと話がずれますが、こんな映画観ました。
「劒岳 点の記」新田次郎さんの山岳小説を映画化したものです。
 ↑ 印象的な猛吹雪の中で、修験道の行者が祈るシーンから物語は始まります。

明治の頃、軍の陸地測量部の測量官に、未踏峰とされてきた剱岳への初登頂と測量の命令が下ります。

それは日本地図最後の空白地帯を埋めるという重要かつ困難を極める任務だったのです。

ベテラン山案内人とともに測量に挑んだ男たちは、ガレ場だらけの切り立った尾根と悪天候・雪崩などの厳しい自然環境、ライバル日本山岳会との登頂争い、未発達な測量技術と登山装備など様々な困難と戦いながら測量を行います。

そして、ついに剱岳登頂に成功いたします!
その時、山岳ガイドが足元に光るものに気が付きます。
「隊長、これはいったい何でしょうか。。。?」    「どれどれ・・・」

それは、修験道の行者の錫杖の一部分だったのです!な、なんと~!
陸地測量部は、初登頂ではなくもう、何百年以上も前に行者が登頂していたのであります。

初登頂ではなかったのですが、価値ある測量のおかげで、日本地図は完成したといういいお話です。新田さんの山岳小説の中でも傑作ですね~

それにしても修験道・・・行者様・・・凄すぎる~(^^)/
役行者様を主人公とした映画を、制作していただきたいものです!

重伝建を歩きたい(1)湯浅 お醤油の街2020年05月30日

「重伝建」とは、重要伝統的建造物群保存地区の略称です。

城下町・宿場町・門前町・寺内町・港町・農村・漁村といった歴史的な集落や町並みの保存を目的に設けられた国の制度です。

国が優れた建造物を個別に保護する場合、重要文化財に指定しますが、「重伝建」は、一定区域に存在する複数の建物や景観を残すため、「面的」に指定するところがポイントです。

つまり古い街並み景観が残っている地域のことですね。

2019年(令和元年)12月現在、山形・東京・神奈川・熊本を除いた43道府県、100市町村の120地区が文化庁により選定されています。

https://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/shokai/hozonchiku/judenken_ichiran.html


和歌山県では唯一の「重伝建」が湯浅伝統的建造物群保存地区です。

湯浅は古代より熊野参詣の宿所として栄えていましたが、中世に伝わった金山寺味噌の製造に由来する醤油醸造が、近世になって紀州藩の保護を受けて、代表的な産業となりました。(92軒も醤油屋さんがあったという。現在は5軒)

通りと小路の特徴的な地割りで構成され、切妻造平入、本瓦葺を伝統とする街並みに醸造文化の歴史的景観が残っています。 

↑ 醤油発祥の地やいしょ~(^^)/  ※ やいしょ は和歌山弁 = でございます。
醤油発祥の地も諸説ありますが、湯浅の場合、鎌倉時代に同じ紀伊国(和歌山県)の興国寺の僧であった心地覚心(法燈国師)が、入宋時に学んだ金山寺味噌の製法を、湯浅の村民に教えている時に、仕込みを間違えて偶然出来上がったものが、今の「たまり醤油」に似た醤油の原型だとされていて、偶然というところがなんかいいかんじです。
 ↑ 角長さんは現在も醤油づくりを続けている老舗。(創業1841年 天保12年)
 

 ↓ こちらは昔の醸造工場の様子 ボランティアガイドさんによる説明を受けることもできます


私、街歩き好きなんですが、やはり古い街並みはええですね~♪
レトロなポストもいい味出してます。↓


ここ(湯浅町)までくれば、お近くの広川町にも足を延ばしますって、大阪方面へは帰り道になるので、ついでやいしょ~(^^)/

ここには2007(平成19)4月にできた、濱ロ梧陵記念館と津波防災教育センターからなる「稲むらの火の館」があります。


115日は「世界津波の日」に制定されていますがその理由は・・・?

安政元年(1854年)115日に和歌山県で起きた大津波の際に、濱ロ梧陵が自らの収穫した稲むらに火をつけることで早期に警報を発し、避難させたことにより村民の命を救い、被災地のより良い復興に尽力した「稲むらの火」の逸話に由来しています。

(稲村の火の館 ホームページより)

https://www.town.hirogawa.wakayama.jp/inamuranohi/siryo_inamura.html


濱口梧陵記念館は、濱口梧陵の生家です。展示室には生い立ちから晩年までの資料が展示されています。


そのまま順路を進みますと、隣接した新築の津波防災教育センターへ。
津波のシミュレーション、体験、3Dシアターと防災と津波について学ぶことができます。
湯浅の「重伝建」街歩きと広川町の「稲むらの火の館」。これはもう是非ご一緒に (^^)/
あ、ちなみに両方とも「日本遺産」にも登録されてます!

絶景の庭園から 明日がみえますか?2020年05月24日

昔、初めてヴェルサイユ宮殿を訪問した時、宮殿そのものよりもお庭に圧倒されてしまいました。

特に、「緑の絨毯」とも呼ばれる、中央部分の芝生。全長335m、幅40m。その両側に彫刻を配して圧倒的スケールでした。やるなー、ルイ14世とやら。

我が家の車1台が停められる広さを誇るお庭に、私も芝生を植えてみました。

少し違う。。なんだか違う。。。いーや、全然違うではないかあ!って・・・

でもガーデニングって楽しいですよね。(新型コロナ期間、やること庭の雑草むしり・・そればっかり)西洋の庭園も美しいのですが、今は日本庭園にも惹かれています。

 

日本の庭園って、大名庭園(普通、お城の近くにある)とか、お寺の庭園なんか有名所ありますよね。日本三名園と呼ばれる金沢市の兼六園、岡山市の後楽園、水戸市の偕楽園は全ていわゆる大名庭園。

お寺の庭園では、やはり京都市でしょうか。龍安寺方丈石庭、詩仙堂(一乗寺)、高桐院(大徳寺塔頭)などなど数多あります。

あと、美術館ですがお庭で有名になった島根県の足立美術館もスゴイですね。私、横山大観画伯、好きなので、そりゃもーたまりません(^^)/

 

私の故郷、和歌山市にもいい庭園がいくつかあります。

① 番所庭園 日本遺産「絶景の宝庫 和歌の浦」


万葉ゆかりの地でもありまして、神亀元年(724年)に、はるばる平城宮から聖武天皇が、お供の公家・宮廷人達と、和歌の浦に行幸されましたが、藤原卿がここ番所庭園の北側に広がる海「雑賀の浦」の漁火を見て、詠まれたと言われている次の歌は有名です。↓

  紀の国の 雑賀(さひか)の浦(うら)に 出()で見れば

   海女(あま)の燈火(ともしび) 波の間()ゆ見ゆ

 


「番所庭園」は「番所の鼻」といい、平坦で海に長く突き出た地形のため、江戸時代に紀州藩が海の防備見張りのため遠見番所を設けた場所の一つです。(番所は十数か所あったといいます)

ここはその中でも、和歌山城に最も近い番所として重要でした。米国ペリーの来航(嘉永六年・1853年)を機に、紀州藩も本格的に海防に取り組み始めました。翌年、安政元年(1854年)に家老三浦長門守御持場「元番所お台場」が、庭園大芝生の所に構築されました。

その後、遠見番所は鷹の巣山頂(場所は近くです)へ移転したので、ここは「元番所」とも呼ばれたそうです。


 ↑ 私もそうなのですが・・・明日が見えない人、多くいらっしゃいますよね。

 ↓ 明日はどっちだーっ!  (明日のジョー?)

 

低めの黒松と石が不規則に並んだ、芝山の眺めは白砂青松(白砂青松とは白砂と青々とした松で造形したもので、日本の美しい海岸の風景を見立てているそう)の様にも感じられます。

島根県の足立美術館の白砂青松を思い出したりも致します。

芝生だけでなく珍しい紀州青石(緑泥片岩)の海岸美も、素晴らしいです。

 


 ↑ テレビドラマ・映画撮影のロケ地定番です


② 「養翠園庭園」 番所庭園から車で10分あれば行けます!

紀州徳川家・第十代藩主徳川治寶により造営された大名庭園です。

松を主体として約33,000㎡の広さがありますが、ユニークなのは海の面している立地から、池に海水を取り入れた汐入りの池。これは珍しい!


庭園内には御茶屋 養翠亭が有り、茶室 実際庵(二畳台目)や左斜め登り御廊下など貴重な遺構が保存されています。季節にはカキツバタが実に美しいです。


葛城古道を歩く 高鴨神社~高天彦神社~葛木御歳神社2020年05月20日

奈良盆地の東に連なる美しい青垣の山裾を縫うように、三輪山の麓から石上布留を通り、奈良へと通じる道。「日本書紀」にもその名が残り、日本最古の道ともいわれる「山の辺の道」が好きで何度か歩きに行きました。個人的に行ったり、お客さんを連れてのガイドや添乗でも行きました。

もう一ヵ所好きな古道に、西の葛城連山の麓を走る「葛城古道」があります。
こちらは個人的に歩いただけで、お客さんをお連れしたことはないです。
でも、専門学校の教員時代、学生たちを案内して、観光に関する論文を執筆してもらいました。
一般財団法人日本ホテルセンター様の「学生観光論文コンテスト」に応募したもらうためです。2015年のことでした。論文タイトルは、資産価値の認識を目的とした観光コースの作成など~語学・観光系専門学校との実務レベルでの「産学連携」の提案~】
結果、最優秀賞は逃したのですが、優秀賞(公益財団法人日本ナショナルトラスト 会長賞)を受賞いたしました~!ああ~懐かしいなあ。。。
このコンテストも2019年度で終してしてるようですが、19回の歴史で、受賞は大学生ばかり。専門学校生が受賞したのはほとんどないと思います。
いい内容ですよ。 是非読んであげてください! こちらからアクセスできます。

葛城古道の道沿いには、古代豪族の 葛城(かつらぎ)氏とか鴨(かも)氏ゆかりの古社が点在しており、神さびた雰囲気が漂っています。。。

こちらは、高鴨神社です。↓
全国の鴨(加茂) 社の総社です。京都にある世界遺産の下鴨(しもがも)・上賀茂(かみがも)両社も、源流はこの神社にあります。
また、4月中旬から5月初旬にかけて500種2,200鉢以上の日本サクラソウが咲くことでも有名です。
ご神木と本殿へ上る階段、鳥居の向こうに拝殿が見えます。↑ 本殿はその奥で天文12年(西暦1543年 室町時代)再建、三間社流造の建造物で国の重要文化財に指定されています。(撮影禁止)

高鴨神社境内の宮池には浮舞台があり、5月に行われる「献花祭」で奉納される雅楽と舞は、「奈良県景観資産」に登録されています。↓
こちらは、摂社東宮で、県指定重要文化財に指定されていますす。 ↑ 
さらに摂社西宮や多くの摂社が境内にはあります。
鴨、「カモ」は「カミ」と同源であり「カモす」という言葉から派生し、「気」が放出している様子を表しているそうです。こちらの神社の神域は鉱脈の上にあることも重なり、多くの「気」が出ているパワースポットとしても有名です。

御所市高天の高天彦神社です。参道はかなり急な山道です。。。↓

↑ 高天彦神社拝殿です。金剛山の麓に建つ神社であり、5世紀ごろに栄えた葛城氏の祖神「高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)」を祀っています。御神体は、背後にそびえる円錐形の白雲峯(694m)です。
そして、この一帯は、古くは日本神話に登場する天孫降臨の「高天原(神々がおわした土地)」といわれています。

↓ 葛木御歳神社(かつらぎみとしじんじゃ)です。全国にある御歳神社・大歳神社の総本社であり、先に訪れた高鴨神社(上鴨社)に対して「中鴨社」と称されています。 
※ 鴨都波神社(下鴨社)もありますが今回はご参拝できていません。また次回是非に!
( 神社ご由緒書きより抜粋 )
「御神名の「トシ」は穀物特に稲、またはその実りを意味する古語で、御歳神は稲の神、五穀豊穣をもたらす神、また、穀物の生長を司る神として古くから崇敬されています。また「トシ」は年に一度の収穫を基準とした時の単位であることから、何か事を始める時にお参りするとよいとされています。
私たちが正月にお祭りし、親しんでいる年神様は、この御歳神、大年神、若年神といわれています。鏡餅は御歳神へのお供え物(依り代)であり、このおさがりのお餅には御歳神の魂がこめられており、これを「おとしだま」と呼んでいたものが今のお年玉の起源であります。。。」
神社名は「みとせじんじゃ」とも呼ばれているそうで、その歴史は古く弥生時代よりの頃より五穀豊穣の神として祭られてきた場所です。
親切な宮司様にご案内いただき、ご神域近くまで入らせていただきました。
いにしえからの空気に満ちたご神域。。。。
宮司様に教えていただき、歩いてきた足元を見ると不思議な植物が! ↓(白い植物)
銀竜草(ギンリョウソウ)というそうです。
ツツジ科ギンリョウソウ属の多年草で、別名がユウレイタケ。。。(-_-;)
森林の林床に生え、花が咲くとき(4月~8月)以外は、その姿は地上では見られないそうです。
いや~、初めて見ましたが、色素がなくて真っ白なんです。
「神さまの使い」かもしれないなー。。。なんて思ってしまいましたです。

手塚漫画と明日香村 謎の石造物2020年05月18日

日本で、いや世界で最も偉大な漫画家であると信じる手塚治虫先生。膨大な作品の中で私が思う代表作は何といっても「火の鳥」です。特に過去と未来を交錯させながら展開する、実質的最終話「太陽篇」が好きです。

過去の部分では、西暦663年、白村江の戦いで倭・百済軍が唐・新羅連合軍に惨敗しするところからお話は始まります。百済王一族の兵士・ハリマは、唐軍に捕らえられ、生きながらに顔の皮をはがれ、狼の皮を被せられてしまいます。狼の顔を持ったハリマは、不思議な老婆に助けられ、老婆、そして瀕死のところを助けた大将軍、阿倍比羅夫と共に倭国へやってきます。物語の舞台は当然、飛鳥の都になります。

日本古来の産土神(漫画では狗族という狐っぽい一族)と仏教の四天王が、実際に戦ったり、当時の仏教が日本に浸透し、天智天やら大海人皇子も登場して、仏教が災いになるだの、いや仏教に帰依するだのといった混乱が描かれています。



↓ 斑鳩、法隆寺の火災事件も描かれています。


手塚漫画は他の作品もすべて傑作ぞろいですが、「三つ目が通る」でも飛鳥を舞台にしたお話があります。飛鳥には誰が、何のために作ったのかよくわからん~??石造物が約20体ほどあるそうです。
その中の酒船石 ↓を扱っています。このお話は多分、松本清張さんのミステリー小説「火の道」にヒントを得ています。そうですねー。私も数ある石造物のうち、これが一番ミステリーを感じて好きです。


酒船石の場所は 亀形石造物 小判形石造物と祭祀場 ↓の横を少し登っていく丘陵の上、竹林の中ですが、発掘調査でこの丘陵は自然のままではなく、版築と砂岩の切石で改造した人工的な丘陵ということがわかっています。

他の石造物もミステリアスで、「誰が、何のために?」と想像力を働かしながら見て回るのは楽しいです。


飛鳥資料館に展示されている石人像  ↑

岩に座った男性に女性が後ろから手をそえているのでしょうか。男性の足元から口まで内部に細い管が通り、途中で女性の口にも分岐しているのだそうで、噴水施設であったと推測されています。

ブラタモリでなんか実験やってましたね。。石人像の風貌から男女のモデルをペルシャ・インドに求める説もあります。うーむ、この時代に遠路はるばる。。。聖徳太子ペルシャ人説、ゾロアスター教説なんかも興味あります('ω') 


猿石 ↑ は4体が吉備姫王墓内にあります。
実に奇妙な人面石像で、猿ではなく渡来人を象ったものといわれています。
4体の像にはその外見から「女」・「山王権現」・「僧(法師)」・「男」とそれぞれに愛称がつけられてます。
高取城への登山道の途中にも猿石と呼ばれる石像が1体だけ置かれている(もとは同じ場所にあったものを移した?)そうなのですが、そこはまだ行ったことがございません。

鬼の雪隠 ↑ 鬼の俎ってのもすぐ横にあります。でかいです!多分、古墳用の石なのでしょうが。。。
他にも亀石・二面石(橘寺境内)・益田岩船などなど。。。どれもステキです💛

前に推古天皇の宮や陵墓について書きましたが、一代おいて即位した女性天皇、皇極天皇、重祚(一度退位して復活~)した斉明天皇は土木工事を多く実施。これらの石造物は、ほとんどが彼女に関係するといわれています。その中で酒船石遺跡が石造物の謎をとく、もっとも重要な遺構なのではないでしょうか。。。

ちなみにこの飛鳥時代、「日本国創成のとき―飛鳥を翔(かけ)た女性たち―」というテーマで日本遺産に登録されています。
「女性が国づくりの原動力
日本で初めての女帝であった推古天皇は、巫女(シャーマン)的要素を備えつつも、仏教の興隆に力を注いだ。従来どおり神々が宿る自然を厚く敬いながらも、新しい仏教を取り込み、いわば神仏が調和した国づくりをはじめた。そして、東アジア世界と正面から向き合った女性でもある。このような女性の力は、次の女帝・皇極(斉明)天皇にも受け継がれている。(後略)」(日本遺産ポータルサイトから引用)