新・隠れ里紀行 天見~流谷 ― 2020年07月17日
白洲正子さんの名著「かくれ里」のパクリです。
私の住んでいる河内長野市はなかなか緑も多く、文化財も多く残っていていい所です。
今回は、河内長野市南部に位置します「天見」(南海高野線天見駅があります)方面行ってきました。和歌山県(橋本市)との境界に位置します。
山深い森の中であるにもかかわらず「天が見える」ところから「天見」という地名になったという説があります。 ↓ 隠れ里にふさわしい風景です(^^)/
国道371号線を河内長野から南下、「出合ノ辻」といういかにも曰くありげな交差点がありますが、そこは南北朝時代の古戦場で、1333年(正慶2年)の正月に、楠木正成が率いた南朝軍と北朝軍(紀州の御家人)とが、この辻で出くわして「安満見合戦」と呼ばれる壮絶な合戦が行われた場所なのだそうです。
河内長野方面からですとここを右折しますと、「流谷」という集落方向に向かいます。
左折しますと南海天見駅方向です。
流谷「ながれだに」・・これはなかなかに渋い名前ですよね~。くーったまらん!
↓ 八幡神社、通称「流谷八幡神社」(ながれたにはちまんじんじゃ)
この地にはかつて甲斐荘という京都の石清水八幡宮の荘園があったそうです。それで1039年(長暦3年)1月6日に石清水八幡宮より八幡神を勧請し、社殿を造営したことが神社創建の起源とされています。
境内にあるイチョウは樹齢400年とされ、大阪府から天然記念物に指定されています。秋にも来てみたいものです。
↓ 大イチョウ 今は紫陽花もきれいでした。
↑ 縄掛神事も行われています。1039年(長暦3年)石清水八幡宮より勧請された際の御柱渡御古例祭で長さ60mの注連縄を作り、勧請杉と柿の古木との間に掛けます。流谷と天見を分ける結界の意味があり疫病や忌穢れがお互い入り込まないようにします。また注連縄が長く保てば保つほど豊作になると伝わり、注連縄から12本(閏年は13本)の榊束を垂らします。毎年1月6日または前後の休日に執り行われています。
拝殿内に鉄製湯釜が展示されていました。毎年7月に行われる探湯祭の際に行われる湯立て神事にて利用されていたそうで、湯釜の銘文によると賢覚という僧侶が住民に寄付を募り、流谷八幡宮のため作られたことが記されていて、1340年(延元5年)作とされている製作時期が記された湯釜の中では、全国的にも特に古い年代のものだそうです。
今回、一番の目的は日本遺産に登録された「「葛城修験」~里人(さとびと)とともに守り伝える修験道はじまりの地~」における経塚の訪問です。葛城二十八宿は、役小角が法華経八巻二十八品を埋納したとされる経塚です。流谷には第16番経塚があります。
↑ え、こっちですか? みたいな所を歩きます。
↑ え、ここも登るんですか? みたいな所も登ります。さすが役行者さま。。。
↑ 【第十六番経塚】流谷の里 妙法蓮華経 如来寿量品でございます。
お近くにはもう一ヵ所、【第十七番経塚】天見不動 妙法蓮華経 分別功徳品もあるのですが、さらに登山が必要で今回はパスします💦
天見の歴史として、もう一つ興味深いのが隠れキリシタンに関することです。
河内長野は戦国時代、烏帽子形城城主の甲斐庄正治(かいしょうまさはる)がキリスト教の信者で、烏帽子形山の付近には300名ものキリシタン領民が住んでいたというキリシタンの町だったことがあります。1582年にイエズス会の宣教師がローマへ送った報告書に記されているそうです。その後、豊臣秀吉によるバテレン追放令により、キリシタン達は天見の山里に隠れ住んだそうです。当時、そこでも200名ほどの隠れキリシタンがいたそうで、天見の里は隠れキリシタンの里でした。
↓ この細い道を上に上がると薬師堂跡が。
流谷奥の薬師堂跡に破壊された十三仏碑があり、この石碑には「1653年(承応二年)十月十五日」の銘と共に「十三体の仏像」が浮彫にされています。さらに20名の信者名が彫られていますが、その中に「テウロ」や「シタニ」、「道金(ヨハキン)禅門」などキリシタンの洗礼名のような片仮名の名が見られるそうです。(残念ながら私には判別できませんでした)
↓ この石碑は隠れキリシタンのものではないかと推察されています。
この流谷エリア、飛鳥時代から続日本紀などに伝説的に語られる役行者の経塚と、戦国時代の隠れキリシタンの石碑が共存して残る、まさに長い歴史の中での隠れ里と言えるのではないでしょうか。
流谷から戻りまして「出合ノ辻」を反対方向に行きますと南海天見駅(無人)、ここで行き止まりと見えますが、実は道を下ると温泉旅館「南天苑」に続きます。
「南天苑」は明治・大正を代表する建築家・辰野金吾(代表作は東京駅)が手がけた建物です。
↓ 以前に訪問した時はなかったのですが、専用露天ぶろ付きの別館もオープンされていました。
客室も素敵です。
こちらの旅館も私にとって、大切な思い出のある場所の一つでございます。
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