烏帽子形城と河内長野のキリシタン遺跡2020年07月20日

NHK大河ドラマ「麒麟が来る」をずっと見ていたのですが、コロナの影響で現在放映中止、「麒麟が来るまでお待ちください」と言われても・・・(‘ω’)
で、NHK大河ドラマの再放送が「太平記」でございます。かなり昔の作品ですね。
吉岡英治原作、主人公は足利尊氏。尊氏の盟友でもあり、宿敵となる楠木正成。少し前の回で千早赤坂の戦いやってましたね。
今、私の住んでいる河内長野市ではゆかりの深い楠木正成を大河ドラマにキャンペーン実施中~!
楠木七城(くすのきしちじょう)は後醍醐天皇の呼び掛けに応じた、楠木正成が鎌倉幕府への抵抗の拠点とするために築城した城砦群で、現在の大阪府南河内郡千早赤阪村・富田林市・河内長野市にかけて城跡が残っています。
千早城・下赤坂城・小根田城(上赤坂城の一部)・桐山城(上赤坂城の一部)・烏帽子形城・龍泉寺城(嶽山城)・金胎寺城の七城で、烏帽子形城が河内長野市には残っており、国指定史跡です。

  ↑ 山上の曲輪と呼ばれる平坦部分の遺構です
 ↑ 遺構としては横堀、土塁、土橋などが発掘調査されています
 ↑ 国指定史跡になってから説明板を各所に整備したのだと思いますが、なかなか詳しい。

烏帽子形城はその後、城主として甲斐荘正治の時に、息子の正房をキリシタン大名の池田丹後守教正の娘と結婚させて、自身も洗礼を受けたそうです。又、同じく城主となった伊地智文大夫は、クリスチャンネームをパウロと言い、妻はキリシタン大名の高山右近の妻と姉妹で、三人の息子をキリスト教の学校で学ばせています。戦国時代の河内長野はこの様にキリシタンがあふれる状況(200~300人ぐらいの信者がいたそう)と、宣教師フロイスの「日本史」の中で書かれているそうです。

天正9年、宣教師ヴァリニャーニ巡察師が、アフリカ人を連れて、安土城で織田信長に謁見しています。信長は、黒人の彼に「弥助」と言う名前を与えて従者としました。
信長は安土城に向かう途中で「烏帽子形」を見たいと、河内長野にも立寄ったそうです(^^)/
本能寺の変で、弥助は信長の危機の際、勇猛果敢に戦い、最後は光秀に捕まりましたが、日本人じゃないから~との事で許されます。その後の行方は不明との事なのですが、このあたり山田芳裕の漫画「へうげもの」にも描かれていました。(謎多い本能寺の変、弥助は真犯人を目撃する!)

そしてなんとハリウッドが映画化したらしいではありませんか!いつ公開されるんだろう?
主演はマーベル・コミックの「ブラック・パンサー」の実写版で大人気を博したチャドウィック・ボーズマン。

外国人侍といえば、トム・クルーズと渡辺謙の「ラスト・サムライ」がありましたが、時代は幕末。
こちらは戦国時代。「ファースト・サムライ」ですねー!
「麒麟が来る」には登場するんだろーか?気になる(^^)/

やがて時代は変わり、秀吉によるバテレン追放令からキリシタン迫害に。
河内長野のキリシタンたちも隠れキリシタンとなり教えを守っていくことに。

烏帽子形城の北端の字端山の一角には、小字で「ヤソブ」と言う地名が残されているそうですが、この石像は烏帽子形城の北西に位置します大日寺の境内西側に残されています。
お地蔵さまのようですが、形はよく見られる舟形ではなく上部に丸みを帯びており、尊像もお顔が中央にあり、全体的に下に偏った感じがあります。また、錫杖は持っておられず、袈裟の形もあいまいな感じではっきりとはせず、手は胸で合掌されているのでは?という珍しい石仏です。昔は、この石仏を「ヤソ地蔵」と呼んだと言われています。

河内長野駅の東側には、石川が流れていて、対岸に十数年前まで新地と呼ばれた飲食店街がありました。現在は住宅地に姿を変えましたが、その北の外れ、諸越橋近くに河合寺川から石川に流れ込む鳴滝という小さな滝があります。今は、誰も気に留めない小さな滝ですが、古くから知られた滝だそうです。「成滝牛神の森 長野村鎮守」と記す文書があり、田植えの終わった後、お神酒を供えて祀ったと言う伝説も残されているそうです。
 ↑ すぐ側の住宅の横道を入り、山側斜面に見つけたお地蔵様。この先にマリア像を見つけたのですが、このお地蔵様もキリシタン遺跡なのでしょうか?お顔が微笑んでいるのが印象的です。
一石五輪塔の隣、裾に大きな花柄のレリーフ、花柄の上から手首にかけてロザリオが見える首の欠落した像が祀られています。(マリア像と思われます)
 ↑ なかなか衝撃的かと!
合掌の先も砕かれています。右手と手首が壊されていますが、キリシタンが迫害から逃れる為、そして信仰の本体を護る為に、わざと尊像を砕いたのではないかと考えられます。この像では指先は、祈りの組み手です。腹部の八弁の花は、アネモネと思われるそうです。
仏様の袈裟ですと波型なのでしょうが、こちらは衣の線が直線的です。これは、神父のガウンを見習ったものと考えられるそうです。
観光的な整備などは全くされておらず、山側斜面の藪の中で静かに佇んでおられます。そして隠れキリシタンの皆さんは新・隠れ里紀行 天見~流谷でご紹介した「流谷」にも移り住み、ひたすらに信仰を守られたのでしょう。。